日本のすがた・かたち

2017年4月14日
百花為誰開

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花はまた寂しきものと鳥の声 散り敷く路に人の跡なし

 このところ長雨のせいもあり、今年の花見は諦めていました。

私の春はとても憂鬱で、毎年、花粉と恋仲になる季節でもあります。

 

根を詰める仕事には、耳鼻咽喉の鬱陶しさは難敵で、もう20年来の付き合いとなります。それでも満開の桜の風情には勝てず、思い切って散り始めた散歩コースを巡りました。

 

京都の醍醐寺や仁和寺、東京の上野や六義園など、花見の思い出の場所は尽きませんが、花見は大勢の人と出会う場でもあります。

 

私は独りでいる時は寂しいということはなく、むしろ東京の銀座の歩行者天国などでの大勢の人の中にいて、知り合いや連れのいない時の方に寂しさを感じます。大勢の中の孤独感は得も言われないものです。

 

禅語に「百花誰がために開く」とありますが、満開の花を観るたびにこの一語を思い浮かべます。禅僧は「花は誰のためでもなく、ただ咲いているだけですよ」といって目の前で揮毫をしてくれました。

以来、花見のできない春にはこの書を掛けて、茶を一服頂くことにしています。

 

本当に人のために生きられるのか。

本当は人を利用し、自分のために生きているのではないのか。

 

私にとっての桜は、金も持たず、寺も持たず、妻も持たず、酒たばこをやらず、有縁の人々に坐禅を勧め、坐禅会を指導し、各地に禅堂を建てて生涯を終えた一人の禅僧の姿と重なります。

 

私は生来、人と群れることを苦手とし、なるべく独りで考え行動してきた性癖は親譲りのものとはいえず、百年先、三百年先を目指す建築の仕事に就いたことによって作られてきた性格ではないかと思っています。

建築は人間の生活環境と文化の基本的要件であることは論を待ちません。

打ち上げ花火やあっというまのパフォーマンスに終わらず、なるべく永く、時代を超えて、工夫をして頂きながら使える、そのような建築を造りたいと思っています。

漸くそれが分かるような歳になってきたようです。

 

IMG_3383.JPG風に舞う桜を観ての帰り道、去年と同じ位置に白鷺が立っていました。川を上る稚魚を狙っているようです。

諸行無常。森羅万象は刻々と変化しているのに、白鷺の姿を見てなぜか安堵していました。

 

風を得て、桜はただ散り急ぐ朝でした。

 

 

 


2017年4月14日