日本のすがた・かたち
少し色褪せましたが、有名タレントの出家騒ぎで宗教団体が話題に上っていました。
私は長く宗教建築に携わってきたこともあり、宗教がいつも身近にあります。
毎朝、神棚に拝し、仏壇に香をたて、先祖や肉親、尊敬する方、親しかった方たちに挨拶をします。
生家は日蓮宗ですが、私自身は「禅」の教えを善しとし、人生の問題解決の糸口にしています。「禅」は禅寺の仕事が多かったせいもありますが、性分に合うというか、禅の精神性を背景とする茶の湯の芸術性が好ましいと思っているせいか、好む教えです。
昨今は伝統宗教も含め、団体への入信者が減り、各団体の経営者を悩ましていると聞きます。原因は現代の情報社会にあると指摘されています。人生の悩みや問題をインターネットなどの情報媒体に頼り、即座に解決できるので、面倒な宗教を必要としなくなったとのことです。グーグルが「神の最大の敵」といわれる所以です。
しかし、人間が知能を持って以来、「死」というテーマは変わらず、例外なく「死ぬ」ことは大人なら誰でもが知ることで、この深い悩みの解決に検索による情報のみで応えることは無理なことだと思います。
いくら時代が変化しても、生活が変わっても「死」は永遠のテーマで、そこから「いかに生きるか」、「生きている意味は何か」という展開となります。
「どうして私は生まれてきたのだろう」、「どうして私は病気になったのだろう」、「どうして私は苦しまなければならないのだろう」という、人間が生きている限り避けて通れない問題を解いてくれる役割が宗教だと思います。
宗教を信仰する人たちの入信動機は、不幸があったり、難病に苦しんでいたりしている人が多いといわれます。しかし先祖の墓を放棄し、檀家制度も崩壊している昨今を見ると、宗教も時代の価値観に左右され、信者の数が減り続けるのも必然的なことといえます。
新宗教も2世3世代になると、悩みの解決にスマホやネットを使い、信者としての生活や、団体行動の喜びを必要としなくなったといいます。
私は人間が存在する限り宗教は絶えることはないと思っています。
人は苦しみや悲しみに直面した時、“目に見えないおおいなるものが自分を支えている“という「力」を必要としますし、そこには祈らずにはいられない自然の哲理のようなものが存在しています。
人間の「生存と生殖」は生きる根源であり、「死」はどのように生きたら良いかのキーワードといえます。
教えなくても人は祈り、苦しみを糧にできる力を備えています。
「信は力」とは先人の教えです。
写真:インド霊鷲山の朝日
下 伊勢神宮の朝日