日本のすがた・かたち

2016年4月4日
縄文人のルーツ

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我が国の木造建築のルーツを訪ねていたことから、伊勢神宮にたどり着き、一昨年、二十年間の調査メモをまとめた『伊勢神宮』を上梓しました。

出版のきっかけを作ってくれたのは、「飛騨の口碑」(山本健造説)でした。

氏の説との出会いは刺激的なものでした。

 

日本の古代史として誰もが学ぶ「古事記」、「日本書紀」はつい最近の8世紀はじめに権力者の都合で書いたものです。「口碑」はそのまやかしの処と闇に光をあて、迷っていた私に力を与え、一気に『伊勢神宮』をまとめる原動力となったものです。

本を上梓する前から、胸の底に滓のように溜まっていたものが、縄文人のルーツと1600年前の生活スタイルへの疑問で、特に住居と言語については、どの学説も納得の行くものではありませんでした。

 

定説となっている権威ある説も青森の三内丸山遺跡の発掘調査で覆り、学説は信憑性のない仮説ばかりであることも分かってきました。

縄文人のことを知りたい気持ちは募り、本を読み漁った結果、遺伝子がもっとも科学的で確実な情報であることを知りました。

 

私の住む三島市には国立遺伝学研究所があります。その中の齊藤成也研究室が昨夜のTVで縄文人のDNAの研究成果を話しました。

やはり、と思いました。現代の日本人の持つ核DNA遺伝子の内、20パーセントほどは縄文人固有のもので、そのルーツはアフリカ発祥説を採りながらもはっきりと分からないというものでした。

 

20万年前にアフリカから始まったとされる新人類の起源説に、2500年前から伝わる「飛騨の口碑」から研究を重ねた山本健造は異を唱え、飛騨乗鞍周辺から出土する恐竜や哺乳類の化石から、日本でもアフリカと同時期に新人類が誕生していて、1万数千年前には日本から海外に渡っていたと発言しています。

近年山本に呼応するかのように、縄文人は独自の進化を遂げ、大陸に渡り、その痕跡は土器や風習として世界各地に遺こっていることが分かってきました。

 

最新の研究では、縄文人は6000年前から渡航し、渡米ルートのひとつは黒潮北太平洋,ポリネシアの南太平洋コースで到達している痕跡があり、また環太平洋に広がり,中南米まで到達したと考えられています。

一方、1万5千年前、南米にはベーリング海経由の移住があり、6000年前の別ルートの縄文人と再会したと思われる可能性が高いといいます。また南米の古代文明アステカ,マヤ,インカを築いた主力はベーリング経由のモンゴロイド人といわれるが、これらの文化には縄文人の血が流れているといわれています。

 

縄文人と同じY染色体遺伝子を持つ民族は、古代ユダヤ人、チベット人、インド洋のアンダマン諸島のジャラワ族といいます。この人たちの祖先は一緒であるということになります。

 

さて私たちの祖先である縄文人はどのような住まいを造っていたのか、これが私の最も関心の高いところです。

GqDUKtCtkd4Eo-0[1].jpg静岡市に在る弥生時代の住居だという復元竪穴式の建築は当時の担当者が造りたかった想像住居で、私たちはそのすがた・かたちを信じていました。青森の三内丸山遺跡の復元建物もしかり、想像上の産物として観ていなければ、有りもしないものを信じてしまします。

信じてよいのは柱があったであろう穴の痕跡だけて、誰も住居の形態を見たものはいません。最近の発掘調査で、竪穴住居の屋根は草で覆い、その上は土で固めていたということが分かってきました。

私たちは遠い過去の記憶を復元することの危うさを知っている必要があります。

 

古代、縄文人が世界各地に渡っていたと考えている私は、遺伝子分析という最新の科学技術の進歩をおおいに頼りにしています。

縄文人の身体的特徴は、二重まぶた、耳の中が湿っていること、ウインクを眼だけで顔の他の部分を動かさずにできること、肌にシミのできやすい体質ということ。

 

これが当てはまる私は、Y染色体をもつ縄文人の末裔ということに・・・。

                                                             

写真:上 TP 縄文人と縄文犬の復元模型(国立科学博物館の展示)

  下 登呂遺跡復元住居(弥生時代)

                                                             

 


2016年4月4日