日本のすがた・かたち
満開の桜の下で、若者たちの歓声が聞こえます。
進学や就職して社会に出て行く時期で、希望と不安が交差している声に聴こえます。
人生の出発を思うと、私にもこのような時があったなと回想します。
子曰わく、吾十有五にして学に志す、
三十にして立つ、四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、六十にして耳順がう、
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
儒教の経典のひとつ、『論語』に孔子の言行録が収められています。
15歳を「志学(しがく)」、30歳を「而立(じりつ)」、40歳を「不惑(ふわく)」、50歳を「知命(ちめい)」、 60歳を「耳順(じじゅん)」、70歳を「従心(じゅうしん)」と呼ぶのはこの文章からです。
これになぞらえて私の人生と思える歳毎の感想はというと。
吾二十にして建築家を志し、三十にして独立する、四十にして多惑となり、
五十にして天命を知らず、六十にして聞く耳を持てず、七十にして何だか益々面白くなる。
私は二十の頃、高圧感電事故に遭遇して、その時死んでいたと考えると、七十歳まで生存し、孔子の云う6区切りの最後の「従心」に立ち会えていることは感慨深いものがあります。
しかしながら私の場合は、「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」、という心境には至らず、心の欲するままではなく、分裂気味の精神は益々先鋭的となって、周囲に迷惑をかけている毎日といえます。
また、七十にして日々が何だか益々面白いというのも事実で、これを内観してみると、ひとつのことに専念してきた結果ように思えます。
二十歳の頃に建築家を志し、今日までの50年間をその志し半ばという心境で過ごしてきたため、今日に至っても、毎日が興味津々で面白く感じられるのだと思います。
現在複数のプロジェクトに手を染めています。
いずれも三百年先を見越した計画です。
建築は森羅万象を探求する上で、格好の教材となります。
また縄文時代まで遡り、先人の優れた記憶と出会える架け橋ともなります。
「建築は人間の生活環境と文化をかたちづくる基本的要件である」。
この要件造りに勤しんできたからこそ、面白さが継続していると思います。
三百年先の知己を求め、今夜も鉛筆を走らせながら、いつものことですが、「人生に意味なし」と、つぶやいています。
写真: 天然記念物「三春の瀧桜」 2015年4月の満開風景
(福島県田村郡三春町大字滝字桜久保)
TP 2016年3月30日 撮影 髙田祥平