日本のすがた・かたち
「頭を体から切り離して横に置き、坐るように。」
「本尊は唯の木や鋳物、石、紙だ。祈る対象を考えてはならない。」
「神も仏も、親も師も、何もかも己の外に置くように」
「只坐ることに精神を集中させ、何も考えずに、只管打坐(しかんただ・只坐る)…。」
「一寸坐れば、一寸仏でござる。」
30歳の頃、坐禅指導を受けた太田洞水老師の口癖でした。
老師は沢木興道老師の門下で、禅僧として寺も持たず、妻子財産を持たず、酒、タバコをやらず、権門に媚びず、只一心に坐禅をして有縁の者を導いた誠の出家僧でした。
あれから40年経ちますが、時にふれ、ふと老師の生きた跡を思い出すことがあります。
「偶像を持つな、対象を拝むな、自らを灯し火とせよ。」
「自の脚で立て…。」
建築を造ることは大勢の人との協働を伴うものですが、設計は自立した者が自らの創造力を駆使して行うものと考えています。
ともすれば人に頼り、自己を見失う結果が、欠陥建築を生むことになっているように思います。
物事は皆で智慧を絞り協力するのが最善の方法といいますが、これは欺瞞であり、夫々が自立し、自らの力で創造できる者が集うというのが最善です。他人を当てにしたもたれあいからは優れたものは生まれません。
昨今の建築はおざなりで、早晩産業廃棄物になるようなものが多く、歴史に遺こるものは望めないといわれます。哀しいことです。
建築は人間の生活環境と文化をかたちづくる基本的な要件であり、建築家は人類の優れた遺産を継承すると共に発展させて行く使命をおびているはずです。
現代の建築家は、時代といえばそれまでですが、周囲から出されたアイデアやデザインを採用するだけの事業家と化しているようです。デザイナーは他のデザインを加工することに長け、建築家も同類となってきたようです。これでは優れた先人の記憶を遺すような建築は望めません。
巨大な建築も小規模のものも、今生きる時代と次に生きる時代の架け橋となるような、人間ばかりか、生きものにとって、自然環境にとっても調和し、資源を生かし、後に負の遺産とならないものを造ることができるように…。
比較には少し飛躍がありますが、「日本のアントニ・ガウデイを目指せ!」。
今、建築家を目指す若者たちに会うと、この言葉を発しています。
「個のことを他人や政治のせいにせず、自らを灯し火として生きよ。」
このところ、本当にそうだな、と思うことが多くあります。
(パソコンのマウスと付き合う一生になりたくない…)
そう思い、今日という日に黙祷しながら、天災に敵わずとも人災になるような建築を造らないようにしようと心を新たにし、夜な夜な6Bの鉛筆を動かしています。
写真:上 ガウデイ設計のサグラダファミリア(バルセロナ)
下 織田有楽斎造営の国宝・茶室「如庵」(犬山市)