日本のすがた・かたち
人生には初期化をする時期が何度も来るようです。
過去を一度リセットして新な出発をするとき。
出処進退が窮まり、一度振り出しに戻さなければ先に進めないとき、など、など。
仕事など生業に関することもさることながら、人との出会い、別れの初期化は常に隣り合わせといえます。
初期化の中でも厄介なものは、恋愛です。
恋の始まりは熱病と同じで、何を言われても周りは見えません。この世で出会ったことが奇跡で、歌詞にある「…すべての偶然がアナタへと続く…」、という感覚になりますが、一時のことです。恋愛は行為なので、永遠の愛とかというものではありません。
その証拠に神仏の前で誓った二人も別れます。
そもそも恋愛が幸せの始まりで、結婚がその絶頂というのは錯覚です。遺伝子はそのように仕向けることで子孫を遺させようとしていますし、性交への快感もそのための仕掛けといえます。
「結婚は夢とロマンと自由を奪う」とは賢人の言葉。
しかし、これを承知で繰り返される永遠のドラマは魅力に富んでいるものです。
先人は結婚のことを「所帯を持つ」といいました。
言い得て妙です。所帯とは生活をして行くということです。生存と生殖は生きものの本能です。
「互いの過去を初期化してから、ひたむきに所帯を持つといいよ」
先日、所帯を持つ若者に、はなむけの言葉をおくりました。
(人生は初期化の連続に長けなければいけないよ…)、と内心つぶやきながらでしたが・・・。
この何ヶ月間で私も幾つかの事について初期化をしました。
人生時間のこともしかりですが、これから目標に向かって進むためのステップです。
社会的立場や肩書きから離れ、集中して取り組める体勢が整った先週は、数日間の「七夕の茶事」に興じました。
苦しみの元である喜怒哀楽の量は万人に等しく、誰も時間の貸し借りはできない・・・。
そう思いながら、またなぜか、給料日が来るとネオン街に繰り出し、ライブやイベントに現を抜かしていた頃が甦り、ゴールのないマラソンを走り、途中の給水所に寄ることを快楽とするだけだったような若年期。
そんな漠とした不安の日々を思い出しながら、一椀の茶を点てていました。
人間は生きている限り、常に初期化が必要な生きもののようです。
写真: 散歩Aコースの「鮎止の滝」、「龍澤禅寺境内にある石仏」