日本のすがた・かたち
中国春秋時代、伯牙(はくが)という琴の名手がいた。
伯牙は琴の名人として知られ、鍾子期はその親友で、いつも伯牙の琴の音を聴いていた。鍾子期は伯牙の琴の一番の理解者だった。
二人の友情は鍾子期が死ぬまで続いたが、鍾子期が死んでから伯牙は、琴を壊して、自分が死ぬまで再び琴を弾くことはなかった。というのも、自分の琴の音色を理解してくれる友がこの世の中にはいなくなってしまったからだった。(『列子(湯問)』故事)
このことから知音は親しい友、恋人、女房などを指すようになった。
―この時期、氏は茶杓を削っていた。或る日私にその第一作を見せた。私と茶事をしようとして作った力作だった。
「新之介さん、僕削ってみたよ。〈知音・ちいん〉と名前を付けたんだけど…」
「……ウ~ン、先生これじゃダメですよ~、使えませんよ」
「ウーン…」
氏は恥ずかしそうに、そして嬉しそうな素振りをした。
私はその時、とても失礼な言い方をしたのではないかと思い、「先生、〈知音〉とはあの断琴の交わりの……素敵な銘ですねー」
と、思わずフォローを入れた。―
私にとっての「知音」は文人小野田稔こと雪堂氏だった。
師友の交わりは10年余であったが、私を深いところで理解してくれ、常に励ましてくれていた慈眼の人物だ。 氏とは共作の書画展を東京銀座や三島で開き、中国遼寧省への旅で親交を深めるなどしていた。
印象深かったのは真直ぐな助言だった。
ともすれば遊興に向かい、何事も茶化しながら世の中を斜に観ていた私を、笑顔で諌めてくれていたのも氏だった。
人生の最大事は邂逅というが、氏とのふとした巡り合いによって私は生きる妙味を知った。「知音」は一緒に茶事で遊ぼうとした印である。未使用のままであるが、「断琴の交わり」の如く、もう使うことはないだろう。思い出溢れる一杓である。
氏に贈った都々逸
北の鎌倉来てみりゃしゃんせ 雪の白さに春の笑み
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4月18日(土)北鎌倉の雪堂美術館で「ありがとう祭」が行われます。
氏を師と仰ぎ、慕う若者たちの心を籠めた出会いの場作りです。
大きな足跡を遺した小野田雪堂の人柄に触れて頂きたい一日です。
写真: 茶杓「知音」 自作(未出版『茶杓秘話』より)
TP 「この今をありがとうございます」 小野田雪堂 書画