日本のすがた・かたち

2015年3月3日
喫茶去

IMG_0171.JPGおよそ人間は組織の中で行動し、その行動を儀礼・儀式化して暮らしています。

神仏から政(まつりごと)、結婚式や葬式、果ては宴会における乾杯の音頭に至るまで儀礼・儀式を見ない日はないくらいです。

 建築が永く使われ、保存と再生を繰返してきた基には儀礼・儀式の継承があります。法隆寺など歴史的建造物は仏教儀式が続いてきたことにより建築が遺ってきたといっても過言になりません。

 建築は儀礼となり、宗教は儀式となります。

人類は儀礼と儀式を通して人と交わり、そこに共通の存在意義を見出し、冠婚葬祭という祭りや式によって互いを結びつけるという智慧を身につけてきました。これは人間の本能が目指す生存のための行為というものです。

 

 我が国においては茶事という、その儀礼・儀式が高度に結晶したものがあります。

茶事の面白さはその場に集まる人々が、茶の湯という森羅万象を包含する時空間で、茶を喫するという刻を過ごすことにあります。

 年齢性別、立場、貧富を問わず、その場に臨もうとする意思さえあれば誰でもが参加できる儀式で、しかも自分自身で凡てを受け止めるという「冷暖自知」、「喫茶去(きっさこ・まあ、お茶でも飲んで行きなされ)」の行動です。

 

IMG_0153.JPG世界の建築で、茶室ほど高度に信号機化された建物はないように思います。

進め、止まれ、進入禁止、開く、閉じる、音を聴くなどなど、まるで信号機の塊のような施設です。

茶の建築はとても日本的で、それも普遍的です。

 

そこで催される茶事一会は、人と人、人と物の交会です。

話す、食す、飲む、喫す、観る、思う、それらを儀式の中で行うもので、我が国で行われている儀礼・儀式の中で最も大衆向きに洗練されたものといっても良いと思います。

 

他者と交わらなければ生きて行けないのが人間です。その中に喜怒哀楽の殆どがあるわけですが、先人は交わり方を工夫し、智慧を駆使して儀礼・儀式を生み出してきました。

茶事はその結晶といえると思いますが、人間が持てる美意識を根底に据えているところが深遠です。

 

IMG_0156.jpg如月の末、数回の「茶飯釜の茶事」を催しました。

白と黒の道具を造り半年の準備を経て臨みました。

心地良い疲れと、心地悪い脚の痛みが残りました。

この面白さに勝る遊びはありません。もう次の茶事に向けて準備は始まっています。

自分は日本人だなあ、今更のように感じています。

 

写真:黒泥肩衝茶入 銘「御神渡り」  

   黒泥水指 銘「新月」(旧正月が茶事初日で新月でした)


2015年3月3日