日本のすがた・かたち
我が国では中古建物の利用度が低く、住宅では新築率が高くなっています。
その原因のひとつは戦後の大量需要に応えるため安普請で造ったことにあります。
戦前の建築は質が高く、改装することで雰囲気のある家になることがあるのですが、戦後間もない頃の建築の多くは、空き家か廃屋となっているのが現状です。
戦後、過度の木材需要で日本列島の木材は減少に転じ、十年前くらいから漸く供給できるようになりました。
ところが、現在の住宅は木の建築とは名ばかりで、木質系建築という伝統的なものとは違うものが大半となっています。建築を造るのではなく、メーカーが工業生産するという仕組みがそれを物語ります。
人の手で住まいを造らなくなったのは、ここ30年ほどです。
心配しているのが、造るのではなく、取り付けるという作業で完結することです。
取り付けるとは、あらかじめ製品を作っておいてそれを張(貼)り付けるという作業です。
つまり、ここには熟練の技術やものづくりの精神は必要なく、手から手へ、手に得て心に応ずるというような、生きがいに通ずるものは少なく、損得による造りが優先されています。
その結果、建築を使える期間は短く、大量の廃棄物を生み出し、負の遺産を次代に負わせることになります。経済活動的には早くダメになる建築が多いほうが良いという評論家もいますが、この先の日本は廃屋列島となる可能性が高くなります。
どうするのか。
先人が遺した100年や500年前の建築を観れば分かります。
なるべく人の手で質の高い建築を造ればいいことです。
縄文時代から先人が培い伝えてきた優れた記憶が消えない内に、人の手で木の建築を造ることです。
そこには何百年という歳月を経ることができることと、関わる人々の長い歳月に対応できる生きがい、そして醸成されて行く文化があります。
現代生活の中で作られて行くもののいのちは余りに短く、そのスピードについて行けなくなっています。文明の利器は損得や優劣によって生み出され、そして早晩消えて行く。損得や優劣が生み出す結果は、精神の高まりや規範となる道徳というようなものは生みません。一過性の物事、つまり損得や優劣による流行では、人間の品性や人格の形成にはならない気がします。
「不易流行」。
私は変わらないもの、不易なるものを目指していますが、今、この思いを「Sのプロジェクト」に繋ぎ、有縁の若者たちと共有していることを嬉しく思っています。
写真: 日本各地に目立ち始めた空き家と廃屋(インターネット上から)