日本のすがた・かたち
コピペとは主にパソコン上で行われるコピーして貼り付け(ペースト)する行為です。
これは盗用にあたり、学術的には認められていないようです。したがって、論文などには出典や引用個所が問われることになります。
現代社会においては人様の文章や画像を勝手に使用し、誰でもが、あたかも自説のようにすることが容易にできます。
他人の文章や画像をコピペすれば、それで済むことが多いからです。
少し前には、これを現代における最も多く存在する犯罪であるといった評論家がいましたが、今日ではあまりいわれなくなりました。
皆が慣れてしまって、、情報発信や交換の手段として、おたがいさまとして定着してきたからだと思われます。
考えてみれば、建築のデザインも時にはコピー的意味合いが強く、全てにわたってオリジナルというものはないような気がします。
特に伝統的な建築においては、様式美を表現する際に必ず先人が整えたすがた・かたちを模倣します。
古今東西、この模倣という手法は変わらないと思います。発見も発明も常に先人の成してきたものごとの上に成り立っているものです。
だから伝統は守るものではなく、そこに「今」を重ねて創っていくものだ、という考え方になって行くのだと思います。
大昔より、人間は自然の有様から学び、それをすがた・かたちにして文物を創ってきました。
それが現代になって怪しくなってきたのは、目に見えないものを相手にすることが多くなってきたからだと思います。
IT機器・パソコンがその象徴的なものです。
パソコンは仮想現実を生み、人間が信じられるものを曖昧にしてしまいました。五感をもって感じられたものを曖昧の世界に追いやったのです。
今話題のSTAP細胞騒動も、実は目に見えないものを現実として受け止められないことから生じているようです。
コピペの世界に生きる人間の不安が根底にあり、自分自身を信じられる機能を失っているように思えてなりません。
TVも新聞も雑誌にも信をおけないという、現代の病がそこにあるような気がします。
私は建築の専門家という分類に入ると思いますが、内心は生涯「素人」でいよう、と心掛けています。何を指して専門家といえるのか、という疑問からです。
素人や未熟者ある限り、謙虚さは残りそうですし、向上心は絶えそうにありません。
STAP騒動に関してですが、国会答弁で中山教授が30代の若い研究者は、さまざまなことで未熟者だといっていました。
その答弁を見ながら、では何歳になったら成熟者になるのだろう、何をさして未熟といえるのかと思いました。
前都知事の献金事件、みんなの党代表の8億円問題。彼らも未熟者だったのかと疑問に思いました。
小保方さんの会見を見ていて何を思ったかといいますと、彼女は決して未熟者ではないということ。
現代人が不安になり、右往左往する原因が今回の騒動にはあるということ。
それは、信じられることができなくなった人間の量がふえたといういことです。
下世話な質問の多さに驚かされましたが、「惻隠の情(そくいんのじょう)」の無さが目立つ会見でした。
そして、寄ってたかって一人を追い詰めて行く所業を見て、「卑怯者めが!」とつぶやいていました。
次の世代を生きる若者たちに、目に見える五感を保持してもらうにはどうしたらいいのか。
手で触れること、耳で聴くこと・・・。
「手に得て心に応ず」。これしかないように思いました。
写真 私の散歩コースにある通称「鮎止めの滝」
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