日本のすがた・かたち
この正月は各茶家で初釜が催されました。
招かれていつも思うのは、数寄屋建築の妙です。
我が国では世界に類のない木造建築が多く、その様式の多様さに驚かされます。外国帰りの人たちが異口同音にいうのが、日本の伝統建築の素晴らしさです。
海外に行く前には気づかなかった日本の良さも、他国で暮らしてみると、いかに日本が優れて美しい国かを実感するといいます。そして改めて日本文化を学ぶようですが、中でも心惹かれるのが他国にない木造建築のようです。
この10年ほどで、茶室建築は様変わりし、その妙なる美しさが失われてきました。
最近参席した家元筋の茶の座敷は、いわゆる今日日の造りで、座っていてもなぜか落ち着かず、妙な違和感の中にいました。
違和感の原因は「木割(きわり)」にありました。
我が国の木造建築には、ある一定の品格や美しさを保つために使われる技法が伝えられてきました。飛鳥時代から始まり、室町時代頃に完成したという木割法です。
木割法とは簡単にいえば、柱の太さから決められる各部材の寸法割出しのことです。この寸法は比例で決められるようになっていて、美しいと思える比例按分でできています。
例えば、柱の太さの八割が長押の巾(成)というようなことです。先人は美しさを追求し、その美の方程式を次の世を担う者に伝えてきました。
社寺建築はもとより、その木割の妙を見せるのが、木造建築の到達点ともいう茶席で、中でも小間席はその白眉です。三畳の席などの木割は絶妙という他はありません。
先人が美しさの規範として伝えてきた木割は、現在は死に絶えたように、ただの見よう見真似の付け焼刃のようになっています。なぜそれを踏襲し、後に伝えて行こうとしないのか、私には不思議に思えてなりません。
少なくとも、伝統を謳う茶道家元の茶席にはそれが生きていなければなりません。これは設計に携わるものや大工たちが、これらを習得していないことが原因と思われます。また、施主方も茶室は大きな茶道具だという美的認識が薄れてきているのでしょう。
先人は我が国の美意識をさして、「茶味にかなう」ものといいました。
日本人は列島の気候風土の中で美しいと思える生活風習を作り、それを工夫改良しながら、子孫に伝えてきました。伝えてきたものは子孫にとって美しものと思える儀礼・儀式です。茶の湯はその結晶といっても過言ではありません。
木割の妙が発揮されていないものは、永く遺ることはないでしょう。世の中は正直なもので、永く遺したくないものから壊して行くものです。
私は美しさや品格を考えない建築が増えることを危惧します。
工事金と儲けだけの世界になったら、味気ないものです。材料はどんなに安価なものでも、適材適所に使い、一分一厘の寸法の割り出しにすべてをかける…。設計の仕事は、寸法と色合いを決めること。
かつて私もこの木割に反抗し、自分スタイルを編み出そうとしたことがありましたが、今では、先人の智慧に脱帽しています。美しさを追求してきた先賢は偉人だと思う昨今です。
私も漸く若者たちに、この「木割」を伝えられるようになった気がしています。
”若者よ、木の建築家を目指すなら木割の妙を習得せよ〟
究極の木割は、習得した木割法から離れることだと思っていますが…。
写真 犬山市「茶室・如庵」 織田有楽の木割
トップページ 京都「醍醐寺五重の塔」 寺院の木割