日本のすがた・かたち
去年の春から準備をしていた都々逸第3巻が出版の運びとなりました。
仕事が忙しく、コロナ禍やウクライナショックもある中で漸くというところです。
このシリーズは都々逸第、俳句、和歌のそれぞれ3巻に総合編1巻を加えた全10巻の予定です。
残り7巻の原稿は出来ていて、出版の準備を始めたいと思ってはいるのですが、未だ先になりそうです。
都々逸第は幼い頃から耳にしていて、折々に母が唄っていたことから調子が肌に染み込んでいるものです。
横浜に住んだ20代には、辰巳芸者や新橋芸者とお座敷に興じ、「お若いのに都々逸を唄って・・・」と珍しがられ、それが嬉しくて通ったものです。ませた青春でした。
30代は熱海や伊豆長岡、修善寺温泉の芸者衆と興じ、京都祇園や各地の芸者衆とお座敷遊びをしたものです。中でも伊豆長岡芸者の文奴姐さんとは、何度か旅館の離れで都々逸合戦に興じました。御年80のお姐さんと30半ばの即興都々逸唄合戦は、粋なものでした。
ことの始まりは生家の八畳の座敷でした。
父は大船頭をしていた関係で、何かといえば漁師たちが家に集まり、酒を酌み交わしては歌をうたい大騒ぎをするのが常でした。
その宴の最後に必ず母へのリクエストがあり、母は後片付けを中断して席に入り、2,3曲唄いました。何時も民謡と都々逸でした。
民謡は十八番の「磯節」か「宮城野盆唄」で郷里の唄を、都々逸は数知れずでした。
漁師たちは母が唄い出すと囃しながらも静かに聞き入っていました。
私は3歳の頃から父の膝の上で、母の心地良い唄を聴いていました。そして小学生になる頃には、母の十八番を唄うようになっていました。
その後、都々逸にはまったのは、芸者衆に褒められたことと七,七、七、五の26文字に託された言葉が人生を謳う応援歌に思え、また作詞も「禅語」に魅された時期と重なり、都々逸も禅語も同じ領域のものと得心したことによります。
都々逸を知り、唄い、爪弾き、詞を作って早60年余。作詞の数は3000余に及びます。折にふれ人生の妙味を詞に託す楽しみは、何にもまして私を励まし、そしてまた亡き母を思い出す魔法の鍵となっています。
今、改めて3巻の都々逸を読み返してみると、70年の人生が凝縮しているように思います。
あの時、あの人、あの場所で、時は過ぎてゆく…。
過ぎ去る人生時間を堪能し、幾つになっても「カアチャン教」の信者だなぁ、と思うこの頃です。
〽 都々逸は 唄い爪弾く あの世の母と 会える魔法さ 子守唄