日本のすがた・かたち
万葉吟秋の候です。
日本各地に紅葉が現れ、人々の目を楽しませています。
この季節になると、あんなに暑かった夏の熱射も忘れ、冬支度にかかるようになります。何といっても、生きものは気候に適応して生きてなければならず、自然の強大さと、偉大さに無力であることを知らされます。
現代社会でもっとも必要なものはというと、電気です。
現代ではすべてのものを電気というエネルギーに変えて、それを利用し、様々なものを生み出し、生活しています。
考えてみると、私たちは電気がなければ何もできない生活環境にいることになります。電気を制すものは全てを制すといえます。
以前、電気のなかった江戸時代のような生活ができないだろうか、と真剣に考えたことがありました。結果はノーでした。何しろ現代そのものが電気であり、人間はそこから逃れることはできず、この世のすべてが連鎖して生かされている以上、叶わぬことだと知りました。
しかし電気のない生活を考えてみることは結構楽しいことでした。
火か水か原子力かの考え方にもう一度立ち返ることができました。その中で、安全で安価で大量に作ることができるのが原子力でした。
火を使う生活は火災になる可能性があるので危険だ、とされていますが、電気がなかった頃は、危ない事象が目に見えていることによって、火の用心や夜回りといった生活習慣を身につけていました。つまり安全確保の仕組みが人間によってコントロールされていたのです。防火や、防災に対する備えも人間自身が制御していました。
ところが原子力よる発電は、人間では制御不可能な領域のものです。自然の哲理から遠ざかりすぎたシステムといえます。目には見えず、ひとたび事故が起きれば甚大でとてつもない災難を招きます。
ゴミになる放射性物質の最終処理ができない状態で、発電をし続けることは、将来に大きな禍根を残ることになりかねません。子孫に負の遺産を、それも解消できない質と量のものです。
現在、原発が稼働していなくても電力は不足していません。節電といわなくなった昨今、私たちは何を基準として信じていればよいのか分かりません。
ひとついえることは、自然の猛威にはその都度ひれ伏しても、人間は自らがコントロールできる領域と範囲で、文化・文明を作り出して行くということです。
電力供給も軍事兵器も宇宙に大量ゴミをまき散らす宇宙開発も、人間がコントロールできる範囲で成され、子孫に負の遺産を遺さないものを目標とすることです。
歴史は繰り返します。人間が鉄製の武器を作りだしてから戦いが肥大化しました。
現代に至っても戦いは変わりません。私たちはスマホを片手に何かと常に闘っています。
ただその相手が何ものであるか、分からないままに…。
そして季節は移ろい、紅葉は色を増し、人は生き死にを繰り返しています。
“人の世はないものねだりに暇つぶし 色と欲とにやきもちからめて” (自作狂歌)
(写真 箱根強羅 神仙郷「箱根美術館」名庭)