日本のすがた・かたち
11月は子(ね)の月で茶家では正月にあたります。
10月に茶室の大掃除をし、障子を貼り替え、炉を開きます。
開炉の時期は柚子が色づく頃といわれ、新しい茶葉を詰めた茶壺を開け一年の始まりとします。
この開炉に合わせて行う茶事が「口切(くちきり)」です。
昨年は口切茶事を何日か催しました。今年は「夜咄(よばなし)」の茶事です。
12月に近くなると4時頃には暗くなり、この闇が訪れる時を待って始めるのが夜咄です。
4時半から茶席に入り、3時間ほどの時間を茶室で過ごします。その闇の中での動作、所作をリードするのは和ロウソクの火です。
日常では感じることができない空気と感覚が一同を覆います。
闇は粒となって空間を漂い、人は点に近い灯火のもとで過ごします。
妖しく神秘的な空間は、ひとの五感を動員させてもの事の分別に向かわせ、そして日常と隔絶した時間に身を置くようにはからいます。
このように書くと、何か別世界の情景のようで、確かに自分が別人になったような錯覚に襲われますが、同時に神経がマヒするような災難が待ち受けています。
和ロウソクを持って移動したりする所作があるため、露地で足元が暗くつまずき転んで怪我をしたり、或る人は髪の毛や眉毛を焼き、または衣服を焦がしたりします。
これはロウソクを使用することがない日常生活の習慣から起きる事故です。
私たちは電球や蛍光灯、LED、有機ELといった文明の利器を使い、とても明るい夜を過ごすようになってから、ロウソクなどの灯火を使うことがなくなりました。その方が便利で安全、安価だからです。
ではなぜこのような儀式めいた茶事が数百年も長く伝えられてきたのでしょうか。
私は、日の出の神々しいさまや夕陽の落ちる美しい色に心惹かれ、和ロウソクの燃える火には身近で不可思議な自分と向き合い、何か生きものの遺伝子が息づくさまを感じます。命の営みを実感するのかもしれません。
灯火だけで時を過ごすことは、現代文明からみれば過去を懐古する所業のように思いますが、そうではないようです。
日本人の心の中には、この気候風土が培った美しいものへの憧れが潜みます。
ロウソクしかなかった頃からの夜咄は、その憧れに身を浸す二刻のように思えてなりません。
近く、夜陰に紛れて清談を交わすことが始まります。
手燭で眉毛を焦がす心配のない私には、夜咄が合っているようです。
夜咄前に都々逸
” 闇にまぎれる逢瀬の時を 想いさだめて火を灯す 〟