日本のすがた・かたち

2013年9月23日
ネクタイ

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お彼岸になると春からまた何人が亡くなったのか、数えます。

親しかった人ばかりですが、年々数が多くなっていることに気づかされます。

それだけ自分が齢を重ねていることになりますが、辛いのは幼子や若者が先に逝くことです。

彼らは未来の時間を生きる可能性が大きかったはずで、その可能性の喪失が哀しいのです。年寄りと違った可能性大への哀悼です。何人かの若者の死には胸が詰まります。

 

私は30年来、ネクタイを着けない日が続いていました。理由はインドを旅したことによりますが、その頃から茶の湯に興味を持ったことも訳のひとつです。

インドを旅していて感じたことは、時間の悠久さと自己の表現の自由さでした。幸い、冠婚葬祭に臨む時は、和装での参席で威をただし、スタンドカラ―のワイシャツの併用で過ごしてきました。ネクタイで首を絞められることを一様の風俗に染まるとして嫌ったためでした。

 

今年の7月末、奇しくも伊勢神宮で公式参拝の機会を得たとき、お世話頂いた方から連絡があり、ネクタイ着用の黒スーツで、との依頼を受け、悩んだ挙句紫地のネクタイを締めて参拝することにしました。借り物のネクタイは30数年の私の習慣を解体しました。

何しろ神様ごとですから、無駄な抵抗はできませんでした。

 

今年から葬儀が多くなり、一本も無かった洋服ダンスに黒のネクタイが入ることになりました。二百数十本あったネクタイが、一度ゼロになり、今年になり一本となります。この数の変化は私の人生の変遷の記憶でもあります。あの時のあの人、出会いの喜び、そして別れの切なさ。そしてまた新たな出会い…。

こうしてやがて私も先人の仲間入りとなることは間違いありません。

 

茶の湯に親しんでから、生きていることの醍醐味を知るようになりました。

毎年催す茶事は、親しい方たちばかりでなく、縁(えにし)人との濃密な交会といえます。このお彼岸には、10月の雪堂茶会と、11月の夜咄の茶事のために茶杓を二本削りました。いずれも先人を偲んでのものです。

これから茶杓に銘を付け、茶事に臨みたいと思っています。

懐かしいあの人に会うために…。

 

    ” 草むらに 濡れて誰待つ 曼珠沙華 ”

 

 

 


2013年9月23日