日本のすがた・かたち
今年も白蓮が咲く頃となりました。
蓮のつぼみをみると、なぜか公案を思い出します。
公案とは禅の修行僧が、悟りに至る過程に与えられる問題集といわれます。
20数年前、私は禅寺の老師(師家・高僧)に、公案を与えて頂けないか、と頼んだことがあります。
当時は禅の教えに没頭していたこともあり、修行僧と同じように公案を解いてみたいと思ったのです。
「太田さん、あなたが現在取り組んでいる仕事もそうですが、今、現在、いろいろな物事に対してどのようにしようか、どうしたらいいのだろうか、と思いあぐねているでしょう。そのこと自体が難解である公案を解いているのですよ。古くカビ臭い公案を解くより、あなたが今解こうとしている問題こそ、最も生きた公案です。禅家ではこれを現成公案といいます。」
そして老師は私の眼の奥を見据え、もしどうしてもというのなら、頭を丸めてくるように、といわれました。
公案を欲しければ、出家をしてこい、というような主旨と受け止めました。
私は在家の分際で、なんと失礼なことをお願いしたものだと恥じ入り、以来、その場しのぎのような現成公案を解きながら、生きてきたように思います。
人生の悩みの種は尽きることはありませんし、また悩みは苦しみと同意語です。
そして悩みの種は自らが蒔き、自らが苦しむようになっていることに気がつきました。
そして苦しみは自らの力で刈り取る以外に解決する方法はない、と思うようになりました。
人間は本来、“苦しみ製造機”となっているようです。
私という製造機は今日に至り、これもしたいあれもしたい、と苦しみの種を大量に生産するようになりました。
思えば、現成公案を解く量が増えているのです。
早朝、いつものように露地の掃除をしながら、近頃寝ても覚めても公案を解いていることに気がつきました。
今年になって動き始めたプロジェクトは、見方を変えれば苦しみのプロジェクトのようです。
しかし、この苦しみこそ、私を支えている大きなエネルギーとなっているものです。
(写真 坐禅修行をする雲水)