日本のすがた・かたち
なぜ私たちはものを作りつづけているのか。
結論の一歩手前までには多くの解答がありそうですが、最終的には食物を得るためのようです。
では作らなくなったらどうなるのか。
多分飢えからくる争いが多発し、人類滅亡の危機に直面することになるでしょう。
生物は食し子孫を遺す、これが原理原則で人間の生もこれが原点のようです。
この原則から離れてくると、苦しみがより増大してくるのが目にみえます。
食べ物が欲しい、子どもが欲しい、そしてそれらを得るためのお金が欲しい。
お金さえあれば……。
先賢は、余る金を持つと人生を危うくする、と教えています。
持ったことのない私は人生が危うくなることはないと考えていますが、これが不思議なことに、あってもなくても人間の喜怒哀楽にはさほど変化がないようです。つまり人間はどのように生きようと「人生に軽重なし」、というものです。
変化があると思うのは、思う人によって生み出される価値観で、要は幸も不幸も心の持ちようということになります。
食物を得るためにものを作りつづけることが避けられないとすれば、作ることで将来に禍根を残すことを少なくすることが必要となります。簡単にいえばゴミの山を子孫に遺さないということです。
地球上のあらゆる資源は有限です。いつかは枯渇する定めにありますが、この自然の運行にゆだねられた資源の活用の命は永く続きます。
自然が生み出したものを食し、使い、そして用を終えたものは自然に還す。このシステムが自然循環サイクルですが、これを活用することです。
今、木材を多用しようと様々な工夫がなされ、燃えない木材の開発などが進み話題となっていますが、燃えない木材開発などの発想はどこか方向が違うのではないかと思います。本来燃えるものを燃えにくくすることの不自然さは、限りなく自然から遠ざかることです。
自然の素材を科学的に加工すればするほど、怪しげな異物となるものです。
先人は縄文期の昔より素材をそのまま生かしつつ、文物を芸術の域にまで高め、人間の精神に多大な影響を与えてきました。そのための技術や道具を開発してきました。これを忘れてはならないと思います。
現代においてなぜ奈良東大寺のような木造建築を造ることができないのか、なぜ木造建築は原則高さ13メートルを超えるものを造ってはいけないのか、不思議に思います。多分、我が国ではだれも責任をとることをしなくてもよい風潮が定着してきたための産物でしょう。専門家は構造計算が成り立たないからだといいますが、これでは千年前から何も人間が進歩していないことになります。
自然素材は素材を生かす智慧が必要で、木に金属製の金物使用に違和感を持ちます。また怪しげな接着剤で作られた木材にも信をおくことができません。自然のすがたかたちから遠ざかるからです。
私は先人の智慧が、木造千年の歴史を支えていることに共感を覚えています。この共感は文明の進歩ではなく、文化の領域においてです。
もうしばらくすると、私たちは先賢が伝えてきた木造建築を、文化という新たな視点で見直すことになると思われます。
(写真 奈良東大寺)