日本のすがた・かたち
吾十有五にして学に志さず
三十にして立つ
四十にして多くに惑い始め
五十にして天命を知らず
六十にして耳順わず
七十にして心の欲する所に従わず、矩(のり)を踰(こえ)える
七十五にして我に還り、この先は知らず
かの論語になぞらえてみると、我が七十五年はこのようになるようです。
当てはまるのは、この歳に建築家を志し独立をした「三十にして立つ」のところで、後は総じて混沌七十五年間といったところです。
最近富に思うことは、「伝える」ということです。
先人は子孫を遺し、永い時間をかけて生活の智慧を伝えてきました。
私達の現在の生活や精神性はそれこそ何万年もかけた結果というもので、それぞれの時代が選択してきたエッセンスといえます。
私は日本で独自に発展してきた木造建築を継承し創って来ましたが、後の残された時間を考えると思うほどないことが分かり、急がねばと思います。
生者必滅は人間の真理。これに抗うことはできず、何人も公平です。
コロナ禍の時にあって、思い巡らしていると建築家を目指すきっかけともなった二冊の本を思い出しました。
後に伝えることではないかも、と思いますが、何かの参考になるかもしれないと…。
以下は出版編集中の俳句集・『千々繚乱』の一文から。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
二冊の本
五十八年前の夏、義祖父から一冊の本を頂いた。私は高校三年生だった。
『世界教養全集6(平凡社刊)』という本には、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』、小林秀雄『無常という事』、岡倉覚三(天心)『茶の本』が収められていた。
それがきっかけとなり、その年の十一月、『世界教養全集2』を、なけなしの小遣いをはたいて買った。モンテニューの『随想録』、ロシュフコーの『箴言と省察』、パスカルの『パンセ』、ブーヴの『覚書と随想』だった。
二冊とも国語辞典を傍に置きむさぼるように読んだことを覚えている。
義祖父は建築家とし東京や熱海で活躍し、その翌年の夏に熱海で亡くなったが、贈られた一冊は現在に至っても座右の愛読書となっている。
後年、設計を独学で学ぶことになり、近代(十九世紀後半以降)から現代の建築の流れを考える上で、イギリスのデザイン運動「アーツ・アンド・クラフツ」やヨーロッパの美術運動「アール・ヌーヴォー」、アメリカとヨーロッパ「アール・デコ」、その後の「モダニズム建築」、「ハイテク建築」、「ポストモダン」から近年の「ミニマリズム」などとも親しむことになった。
しかしその間も、私の志向は海外ではなく、知れば知るほど「日本なるもの」に特化し、結果、縄文期に遡り、歴史的な木造建築に傾倒して行くことになっていた。四十代になり、仕事の縁もあったが禅の思想に染まったのも必然的なことだった。
そのような経緯もあり、私が二十世紀からの建築家に興味を持たなくなったのも、建築を三百年単位で捉えるようになったからで、現代の著名建築家に憧れるようなものはない。時代は変わり、価値観や流行はあっても、建築の本質に変化はなく、その生きている時代の建築を創ってゆくのみ、という今の思考に変わりはない。
私が伝統的木造建築を創ってきて思うことは、「材と美」が建築の命を永らえるための必須条件で、材によって空間を構成し、装飾し、美のすがたは人間の品性に関わることになる。それ故に自分は「材料」と「美しさ」を飽くことなく追及していく使徒なることを目指した。
『全集6』では日本の文化の基軸や美意識の教示を受け、美しいものとは何か、の道標を与えられた。『全集2』では、モンテニューの暢達、ラ・ロシュフコー犀利、パスカルの透徹、ブーヴの懐疑に、人間の精神に於ける光と闇、美醜の境、建築を創造する上で関わる人たちとどのように接し、対応すればいいかの示唆を受けた。両編とも私の設計生活の指針となってきたことはいうまでもない。
畢竟、建築の設計とは「材料と人間を設計すること」に極まると思うに至った。
―後略
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今日、市役所から後期高齢者用の保険証が送られてきました。
そうか、私も後期か…。
我、七十五にして我に還り、この先は知らず。
そうか、好機好例者だ!
〽 あっという間に 七十半ば 色ぼけピンぼけ ノウマダラ(蝶じゃないのにネ~)
写真: 二冊の本