日本のすがた・かたち
『古事記』に有名な出雲の国譲りの神話があります。
これは史実に基づいていますが、内容が編者に都合のいいように大きく改編されています。
『古事記』の神話では、『天照大御神ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とした。
そのため、何人かの神を出雲に使わした。大國主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲った。』
と、いうことになっています。
飛騨の口碑はそれを次のように伝えています。
紀元前3~1世紀の弥生中期ころの日本列島は、数十の小さな国に分かれていました。その中で飛騨と出雲の2国が勢力を持っていました。
大陸では秦が支那を統一(BC221)し、その次に前漢(BC206)が興りましたが、これも西暦8年に滅亡しています。この混乱の中、大勢の異民族が上陸し九州を占領する勢いを見せました。
そこで飛騨のイザナギ命は国を統一するために、出雲からイザナミ命を妻に迎え、2人の間に生まれた姉のヒルメムチに皇位を譲り、弟のスサノオを出雲へ派遣しました。
スサノオが亡くなった後、息子のオオクニヌシ(大国主命)は飛騨に非協力的な態度を見せたので、ヒルメムチは甥のオオクニヌシから、出雲国の統治権を取り上げました。
2世紀以降に大和朝廷の政権の座についたオオクニヌシの子孫は、このことを無念に思い、歴史から飛騨とヒルメムチの痕跡を消そうとしたのです。
その結果、8世紀に書かれた『古事記』『日本書紀』には、飛騨を「高天原」、ヒルメムチを「天照大神」という架空の存在にすり替えました。
『記紀』の神話は現代においても我が国の古代史を謎のベールにつつんでいます。この謎は『古事記伝』1798年(寛政10年)を著した国学者の本居宣長以来の謎として今日に至ってきた分けですが、哲学者山本健造が世に出した「飛騨の口碑」によってその神話でぼかされたすがたがはっきりしてきました。
その中心人物がヒルメムチ(アマテラス・天照大神)であり、日本古代史はここから始まります。
そして、そのすがたがかたちになっているものが、「伊勢神宮」です。
「伊勢神宮」は日本人のすがたそのものといってもいいようです。
(写真 伊勢神宮内宮 別宮「荒祭宮」平成5年第61回式年遷宮神事)