日本のすがた・かたち
また巡る暦尾に咲ける白椿
紅色富士と和して輝く
~眠っている間に 歌っている間に 時は流れ過ぎてゆく~
私は吟詠詩人といわれたジョルジュ ムスタキのシャンソンが好きで、年末になると、よくこの歌を口ずさみます。
日本列島に住む人たちは、年の瀬になると生活万般にわたるものを一新する風習があります。それはまるで生まれ変わるかのような徹底ぶりで、神仏の掃除から、住まい、食べもの、衣服に至るまで、新年を迎えるにあたり、昨日までの過去を水に流し、新たな日を迎えたいとしているかに見えます。
その意味は「甦り」といわれています。
昨日までの罪ケガレを、元旦の零時までにその一切を棄て去るという再生意識です。
その明日への再生復活を願う人間の切なる思いが、大晦日には除夜の鐘を撞かせ、零時になれば初詣に誘う原動力となっているようです。
人間は「死する」ことを、生を受けた時から知っています。
乳児が母親の乳をむさぼり飲むさまは、生きる時間を生きるためと、「死する」に向かうことが始まっていることを知っている行為です。
考えてみると、私たちは生命体として生きてゆく時間の凡てに、「死する」という考えを導入しています。有限なるがゆえに生きることを、生きる意味を、考えざるを得なくなっているのかもしれません。
「死」を前提に生きることは、生きる意味を考え問うことにもなりますが、そのために生まれ変わり、再生を果たし、生命体として初期のすがた・かたちにリセットする必要に迫られる・・・。
半年ごとの神社での茅の輪くぐりや、大晦日や新年を迎える儀式は、人間が変身するために用意された先人の智慧のようです。
まさに暦の尾が尽きようとする年末は、生きとし生けるものの願いとして、明日への再生を祈願する儀礼行事の幕開けです。
人間は金銭をはじめ様々なものごとを貸し借りしますが、生きている時間だけはできません。
人間すべてにとって時間は平等です。それは権力者であろうと、幼児であろうと古今東西みな同じで、過ぎてゆく時間は誰にも止められません。大晦日の零時も、新年の零時も、ただ時が刻々と過ぎているに過ぎないのでうす。その中で、私たちは一年という暦をまたぐことで、明日への希望を夢見ようとしているようです。
~眠っている間に 夢見てる間に~
年末になるとムスタキの唄が、御経や祝詞のように呪文のように聴こえます。
誰もかれもがもうすぐお正月です。