日本のすがた・かたち
今更に瑞穂の国の有様を
知ることとなる深い情けも
こととは神事、祭事、茶事、慶事というような意味のことです。
また、「もの」という言葉にたいする「こと」でもあり、物事というように違うのものがひとつになって表現されるものでもあります。
私は、茶の湯にいう茶事を数十回と重ねるようになって、あることに気づくようになりました。
茶事の内容は、招く側の亭主と招かれる側の客との饗宴が主体です。有縁の人たちが一カ所に集まり、そこで交会する催事です。時間は約4時間の饗応ですが、その構成は3部だてに組まれています。
前半の「初座(しょざ)」、後半の「後座(ござ)」、そしてその間の「中立ち」、つまり幕間、間合いという、気分一新のための休憩時間です。今日、茶事は能の演劇性と禅の精神性をベースに組み立てられ、それに飲食を伴わせた非日常的なものと考えられていますが、私が気づいているのは、茶事は非日常的な事ではなく、ごく日常的な出来事ということです。
「物」が3次元の立体形ならば、「事」は世に現れる現象で、かたちではない「かた」というハタラキというものです。物が茶道具ならば主客が共に演者となる所作という「事」です。
日本人は古より、この物と事を一体とすることを目指してきたようです。
物は事によって命を吹き込まれ、事は物によって目的を達成する。先人はこれを日常の生活の中で繰り返し伝えてきました。私はここに深い好感を覚えています。
ともすれば、物が優先し、事がおろそかになっているような昨今。物を輝かすには事から始まり、調和することが大事だよ、と教えられているようです。
平成バブルの頃、雨後のタケノコのように美術館建設ラッシュがづづきました。現在、その運営が困難になっているところは、物はあっても事を見失っているいるところがほとんどのようです。日本人が物事に対する慎みや畏れを忘れだした頃から、これは予見できるものでした。
事は物に光を与え、見るものを高め、楽しませるるものです。
私は祭事「和の心にて候」を企画し構成する際、この物事がひとつになる茶事を思うようになりました。
光の射す道
その時
私はディジュリドゥが響く鋸山から天空に飛翔した
西を見下ろすと 雲の上の富士山が未明の姿を見せていた
東方は雲を丸くし 来光の時を待っていた
やがて
冥い宇宙から光輝が一点 眼に飛び込んできた
すると 雲海が瞬く間に裂け
陽光は東海から東西に延びる鋸の峰を一直線に渡りはじめ
箱根の強羅へ向かい そして山梨の七面山 一宮 綾部を通り
島根の出雲へと走った
その光は海を渡り インドの釈迦の聖地ルンビニへとゆく
なんという美しい光の道だろうか
次の日の未明 私は夢の中でこの光景を見ていた
太古から絶え間なく続く 東方からの神秘なるエネルギーの放射
私は 鋸山の峰を渡る風の その声も聴いていた
(9月28日鋸山へ 29日夢の中で)