日本のすがた・かたち
2008年9月9日
縄文20年
平成を縄文といい 替えてみよ
変わらぬヒトの生死ありけり
秋の空を見て、この雲の行方も縄文時代と同じかな、と思うことがあります。
私は時折、時代の呼称を変えてみることがあります。平成の次が和昭、その次が正大、冶明、そして安平とか良奈、鳥飛とかです。
今の時代を縄文としたら1万五千年前と何処に違いがあるだろうか、と想像を膨らせます。
棲むものが時の推移と共に10万、50万、1千万、1億人、67億人と増え、それに伴った食糧や情報の量が増えてきた分けです。それが人間の進歩といわれてきました。また、人間が自分に近い種を遺すために同じ人間を殺戮し植民地化をしてきました。その攻防が歴史を刻んできた分けです。それが科学の進歩といわれてきました。その攻防は今日でも続いています。
想像できる縄文時代と、云い換えた今日の縄文の世まで貫く一本の不変のものはあるのだろうか。人間は生き延びている。そこに果たして進歩しているといわれるものはあるだろうか。想像は何時もここに行きつきます。
次代に伝えるものは生々しい人の生だけ、といえば論をまちませんが、先人は苦界といわれる人の世の中にも、和みの色に染まる人の生もあると伝えています。
人間の生き死にが変わらない限り、その生きる美しところを子孫(うみのこ)に伝え、我もそこに喜び生きることはできそうです。
私は日本人の特質といわれるもの中に、その普遍的な智慧が潜んでいると見ています。
「和の心にて候」という祭事は、その普遍的なものを訪ねたいという、私自身の心の持ち出しかも知れません。
2008年9月9日