日本のすがた・かたち
元があり見立ての事を花と観る
そを知る人はいとも美わし
日本人の特質に「見立て」があるといいます。
そうでないものをそのように思ったり、使ったりすることです。またなったつもり、同じ、というのも見立てといわれています。
子どものころの鬼ごっこ、電車ごっこというのも見立てになります。これらの何々ごっこは遊戯ですが、幼時の頃の擬似体験が日本人の情操を豊かに育んでくれていたことは確かです。
我が見立ての得意な日本人も、この数十年で考え方がますます現実的化し、事実や真実や本質的なものでなければ認めない、事実主義一辺倒になってきたようです。実態がないものは認められない、という科学万能の世のようになりました。
実際には涼しくなるはずがない風鈴の音。実は汗だくでも、いとも涼しげに装う真夏の和装と日傘。和室の夏障子、麻暖簾、挙げればきりがありませんが、日本人は五感を動員して涼しげに思う気持ちを育んできました。季節感を我がものとして積極的に気持ちを持ち出しています。涼しく思うようにしようとする心の持ち出しです。私は、それが生活の知恵になり、互いを思いやる心根になってきた、と思っています。
事実、真実、本質だけを是とするような考え方は、その時に、それもその人が一瞬に思えたことに過ぎません。つまり瞬時のバーチャル・リアリティといってもよく、これも実態のないもです。
今、コンピュター時代に生きる私たちは、日本人の見立てというような曖昧なことに価値をもたず、無視していますが、もしかすると、「なったつもり」でいるコンピュターの仮想現実に、一番近いことをしているのが「見立て」なのかも知れません。
この夏の様々な涼しさを思い出して、今更ながら日本人の知恵と、心持ちの見事さに胸打たれています。