日本のすがた・かたち

2018年12月25日
者个聻

年も押し詰まってくると、何故か気ぜわしくなってきます。
昭和から平成の最後の年まで生きてきた私には、今年の暮れは感慨深く、色々思うところがあります。

現在取り組んでいる幾つかの仕事もいつ果てるともなく、この先ずっとやって行く気配があります。歳は確実に重なり、脳ミソばかりか身体も衰えている筈ですが、何となく気合が入り、冴えているところです。

 

先日、「清霜の茶事」を催しました。
六名の客と二刻(ふたとき・四時間)を過ごしましたが、茶事一会を堪能することになりました。
床掛物は清巌宗渭(せいがんそうい)一行「者个聻(しゃこに)」。濃茶の主茶碗は丹波で、茶杓は煤竹で共に銘は同じ「者个聻」。私にとっては三種の神器のようなものでした。

者个聻は禅語で、這箇聻(しゃこに)と同じで、者个と這箇は「これ」、「これら」の意味です。
聻は「しゃく」とも読み、「…だ」、「…だぞ」で、「ここだ」、「それだ」と物を指示するときの語で、一切の事物の根元、禅の極致のこととされています。
席中の問答で正客に応えた時、私が現在一番感じている言葉として話しました。「今ココ」でした。
道元禅師は、時間は現在、過去、未来の他にもうひとつ、「今、今、今…」と刻々に移って行く時間がある。経過ではなく、刻々に今が重なっているだけ、と説かれたとも。

 

私の裡では、その刻々に移る時間には、英語にいう囚われ物からの解放の自由、ただの自由とは根本的に違い、「ひと、ヒト、人、人間、そして這箇の人間」、という五つの哲学的な区別が出来る、自由自在の自由があるとみています。「今ココ」を生きるということは、一人の人間として自由自在に生きる、ということになるからです。

 

人間の苦しみの大半は人との関わりに生じ、過去の忌まわしい記憶に左右されるものです。どの様な状況にあっても、「今ココ」を懸命に生きられるとしたら、どうなるか。

人と群れて何かをすることが苦手な私は、この「者个聻」の本意を知り、何時か孤立無援(自力)となっても生きて行くことができるのではないか、と思うようになりました。

茶事中の問答は、文人小野田雪堂が発した「この今をありがとうございます」に及びました。
生きられるだけ自分として生き、そこに感謝するとしたのは小野田雪堂や道元ばかりではなく先賢が目指した金言だと。

 

庭先の落葉を観ながら、光陰矢の如しの一年を振り返りました。

今も明日も、ずっと「者个聻」、「今ココ」でと…。

 


2018年12月25日