日本のすがた・かたち

2017年12月28日
暦尾将尽

平成29年の暦が将に尽きようとしています。
歳末になり除夜の鐘を聴く頃になると、改めてこの一年に亡くなった人のことを思い出します。
老少不定、人の命の定めは老いも若きも同じですが、若い人たちが亡くなると哀れさが身に沁みます。
今年もお世話になった人や知り合いが亡くなり、年々その数が多くなっていることを実感します。
その内に私もそのお仲間に入ることになるのですが、古稀過ぎてからより過激に先鋭化している自分を見ている年の瀬です。

    古稀過ぎて 未だ解らぬことばかり あれも違うし これも違うと

何時も心がけて日本のすがた・かたちに関心を持ち、木の建築を造りながら暮らしてきましたが、この頃とみに思うのが日本人の在り様です。

戦前戦後のはざまに生まれた私は、先人が育んできた「節度、公平、人情、義務」といった教えで育ってきましたが、東京オリンピックの頃から段々と教育の質が変わり、今日に至ると「自由、平等、博愛、人権」というような価値観が主流となり、利己的で個人主義の国と人の姿になった感があります。これがグローバル化というもののようです。

死んだ後の住処であるお墓の考えかたも大きく変わり、死後に安寧を提供できていた仏教も檀家が激減し、墓仕舞いが流行るなどして寺の存続が危うくなる可能性が出ています。知り合いの寺の住職がアルバイトに精を出す姿を見るにつけ、この感を強くします。

住宅建築も「普請」といって建てるから、「注文」となり、昨今は「買う」という風に変化しています。住いを建てることから世の中の仕組みや、先人から智慧の贈り物を受けることができていたのですが、何時の間にかカタログで選んで買って住む、という時代となりました。
建物自体が床や壁などの面体で考えるようになったため、予め工場で生産加工するプレハブ化が原因といえます。
あらゆるものがプレハブ化し、経済活動が主体となった昨今は、金儲けが人生の目的になった感があります。果たしてこれで良いのかと思い、もしかすると失ったものの大きさに気がつかないのでは、とも思います。

世の中と人の価値観は時代と共に変化して行きます。誰もそれを止めることはできず、諸行無常のまま暮らして行く以外に手立てはないようです。

後数日で除夜の鐘を聴くことになります。
太古から人間が変わることなくしてきたことは祈りです。
亡くなった方の冥福を祈る大晦日になります。

祈ることは生きることのようです。

 

写真:三嶋大社

 

 


2017年12月28日