日本のすがた・かたち
最近のマスコミを賑わしているのが、ミサイルと不倫報道です。
これについては関係者以外お手上げで、ミサイルを飛ばすものは勝手で、不倫も勝手です。どちらもお任せとしかいいようがありません。
数日間、日本列島に災害をもたらした台風や地震と同じような災難とはいえませんが、何しろミサイルと不倫は誰が何といおうと止められません。何しろ人間に備わっている我欲につける薬はなく、ましてや性欲は本能が促していることです。
それじゃ、どうするのか。
まあ、いってしまえば、国家も家庭も、可能な限りの備えをすることに尽きるようです。
つまり、遭う時には遭うしかなく、そうなるかならないかに囚われ過ぎ、自分を見失うことの方が問題というわけです。
かの良寛さんは、地震に遭った時、「災難に遭う時は災難に遭うがよく。死ぬる時は死ぬるがよく」と説き、災難を逃れる方法はただひとつ遭った時にはそれをそのまま受け入れると諭しています。
一休禅師のいう「心配するな。なるようになる」。この心境のようです。
建築を造って行く際、地震や台風に遭い、長年の完成に向けた努力も水泡に帰すことがあります。私は設計が始まると祈りを始めます。この計画が、この設計した建築が無事に完成しますように、と願う祈りです。
普段は神仏に頼らないのに、避けられず遭遇することには頭を垂れ心の裡で祈ります。幾つもの設計をしてきましたが、この習慣に変わりはありません。
目に見えない大いなるものに願い縋るのは人間の普通の姿なのだと思います。
現代は極端にプレハブ化し、工業製品化した建築が多くなり、貪欲な効率化や利益化を追求している時代です。また建築も人工知能化してゆくことは必然ですし、何処まで行くのか興味のあるところです。もしかしたら人間は設計という行為を放棄せざるを得ないことになるのでは、と思います。
まあ、考えてみると現代の設計工学はパソコン任せの分野で、私のような10Bの鉛筆をナメナメという、変態的設計姿勢は流行らくなりました。良寛さんではありませんが、それをそのまま受け入れて生きる以外にないようです。
自分が生きている時間は自分が作ってきたことですから、喧嘩することもなく、相手のいることの半分は、自分が勝手にしてきたことですし、恨んでも仕方のないことです。
ミサイルが飛んでくるのか、不倫がなくなるのか、興味が湧くところですが、私は今、鉛筆を削り、現在取り組んでいる造営計画に対いながら、アズナブールの「じっとこのまま」を口ずさみ、(鉛筆は火を噴くミサイルだ!)などと、世迷言を呟いています。