新之介文庫だより
新之介文庫の佐々木です。
水晶殿関連の調査等が一段落し、その結果を分析し、考察を加え、建築家としての所見を加えます。
一方で、この建物に対峙してきた背景にも深く入って、それはおのずと、造営主・岡田茂吉翁の研究にもつながることです。「茂吉翁がなぜ、この建物を設計されたのか?」、太田はその問に向かうことになりました。
今後の方針を示し、50年100年の大計をたてる、その為には何をどのように進めていくか。建築家はこの力量を問われることになった分けです。施主側の執行機関である、聖地運営プロジェクトチーム12名の皆さんと改修構想が練られる日々が始まりました。
しかもこの計画を伝承していく、次世代の方々との関わりも考える。太田は、チームの方以外に若い次世代を担う人たちをこの事業に参画させてほしい、と進言。結果、担当者チーム8名が参加しました。
建築家は施主の心を動かす、独特の手法を講じました。傍で見ていて分かったことですが、まず造営主への理解。誰よりも岡田茂吉翁の建築思想に近づくこと。次は熱海・瑞雲郷の中心的建造物である「水晶殿」の真の目的を明らかにすること。次は次代の人たちが永きにわたり、水晶殿を改修してゆく仕組みを作る。
誰も気が付かなかった造営主の設計思想に建築家は肉薄して行きます。
改修工事の設計に着手。建物中央の「控之間」を創建当時に復元、構造体は鉄骨鉄筋コンクリート造を継承、デザインを変えることなく法の規制を踏まえ、地盤の補強と地上部の再生、内外装の細部についての再考、設備は最新のものを使い、そしてメンテナンスを考慮し・・・などなど、多くの課題とその後は向かい合うことになります。
聖地運営プロジェクトチームの中に、創建当時に岡田茂吉翁にお仕えした中居林さん、内藤弘さんが設計過程で、重要な情報をもたらして下さったとのこと。この頃からチームリーダーの長澤好之さんと、茂吉翁をはさんで、水晶殿に関する問答が始まったようです。問答はその後5年続くことになります。
宗教家と建築家とのぶつかり合いは、茂吉像を浮かび上がらせることに。
(写真上 設計陣11名の現場会議 中 その日の相模湾 下 若者たちと朝日を浴びながらの対話)