イベント情報
8月1日、熱海・MOA美術館で行われた第30回の薪能を観てきました。
とても印象的な能でした。
昭和60年(1985)より薪能が始まり、今年で30回となりました。
夜陰にまぎれて焚かれる篝火は、時折強い風に火の粉を舞わせ、強い印象を与えました。
演目は能「八島」、狂言「梟山伏」、能「殺生石」でした。
36年前に3度目の能を観た私は、次のような文を書いていました。
ー・・・再度観に行くことになったのは、何か気に止まっていたからだと思うが、いまだによく解らない。能に関する知識を得るために本を読むでなし、話を聞くでなし、どういうわけか回ごとに興味がますます深まるのである。観阿弥や世阿弥の名は知っているが、現在の流派はほとんど知らない。能の意味や狂言のもよく解らない。気を引かれているのは、どうも毎回主役(シテ)で現れるのが死霊だということだ。今まで他に見てきた劇の主役では、死霊が主役であったためしはない。
面(おもて)をつけての舞は、その視界を考えてみると尋常ではない。表情のない顔と尋常でない動きは「静」でなく、むしろそれ故の「動」に思う。怨念の物語は恐ろしいと思うが、かえって人間の持つ生への衝動を表しているように思った。・・・それで日本の美意識を探ろうとは思わないが、気がついてみると、こと能に関しては予備知識ももたず、出逢うその場、その時を唯一の手掛かりとして、観ることをしているようだ。
自分の目でものを見る頼りなさは、多量の情報によって、ただの博学、百科事典になりつつある現代人にとって、無くしてはいけない大切な感性なのかも知れない。―(『建築相聞歌』より抜粋 1986年 相思社刊)
一文を書いてから三十数年経った一昨日の薪能で、何を想ったかというと。
何も変わっていない、自分を思いました。
十数年前には「謡」にのめり込み、渋谷の観世会館の舞台に立ったこともありましたが、人間の本質的なことは若い頃からほとんど変わることはないと、今更のように得心しました。
帰り道、この感覚で良かったのか、それとも進歩や成長が止まったままだったのか、と複雑な思いでした。
何でもいいから、なるべく若い内に体験することだと、若者たちに伝えようとも思いました。
(写真 MOA美術館薪能写真より)