日本のすがた・かたち
昨日の夜更けに八本の茶杓が出来上がりました。
いずれも有縁の方々に差し上げるものです。
白い方は木曽檜、黒い方は黒柿製です。
2020年の夏から始まった大きなプロジェクトが漸くこの秋に完成予定となりました。
現在は別のプロジェクトも始まり、二つの建設が同時進行となりました。
コロナ禍や世情激変の最中の仕事は老体に堪えますが、これもご縁と怠け癖のある身に鞭打つ日々です。
その設計の中に礼拝堂があり、現在、祭壇が造られています。
削った茶杓はその祭壇の用材の一部で、神様を祀る床の間の「框(かまち)」材の黒柿、長さ8メートル余の「水引虹梁(みずひきこうりょう)の木曽檜です。いずれも銘木中の銘木で、調達が適い、設計者として冥利に尽きるというものです。
黒柿はこの度の能登半島地震に被災された信者さんが寄進されたもので、その端材ですが、お見舞いと感謝をこめて先ず一杓を削り、謹呈し、心からの復興をお祈りしました。
私は多忙生活が始まると、何故か手で物を作ることを始めます。陶芸、木工、漆芸、竹芸、手芸など、ジャンルを問わず気の向くまま手を動かします。大半は茶事を催すことが多いこともあり、茶道具が主となります。
丸一年アップしなかったHPも漸く再アップとなりました。
建築は多くの人の手で造られます。関与される人達にはそれぞれの人生時間があり、私もその一人として建築と時間を過ごし、完成を夢見て生きています。
理想とする建築家を目指して50年、未だまだだと思う昨今です。
〽 気をつけてネ 茶杓削ってアナタを待って 会うを夢見て…ケツマヅク
一昨日、20数年来の交流があった出版社社長が亡くなりました。
御歳94でした。
三年前、三島のウナギを食べたいとの来訪され、親しく会食したのが最後で、二カ月前に電話をした時には、療養中で会話は叶わない状態でした。
東京新宿にあった「理文出版」は主に美術関係書を扱う個性的な出版社で、私も数冊世に出して頂いています。
その名物社長には、本を上梓する面白さや、それによって自身に起こる文化的変化の妙を教えられました。お会いする毎に思うことは、口角泡を飛ばす理論家のイメージで、特に国家や世情についての理念には教えられるところが多く、その姿勢は80歳を過ぎた老体とは思えない程の逞しさでした。
亡くなる前日の未明、夢枕に立ったのが最後の一瞬でした。
今日になって、寂しくなったと実感しました。ご冥福を祈るばかりです。
このコロナ禍中、頂いた年賀状の数の減りが示すように親しかった方も数人亡くなり、一入寂しさの増す旧正月となりました。
この四年間、私は大きなプロジェクトの設計監理の任に就き多忙を極めています。
周囲には忙しくて年を取っていられないと、痩せ我慢していますが、喜寿を越した体力の衰えを気力を以て補っているような日々も何時まで続くことやら…。
過去を思えば悔いが多く、この先を思えば不安が募るのが人生。
現在、そう、「今ココ」を本能の赴くまま生きている自分で可、と思い、愛唱歌「人生いろいろ」(島倉千代子)を唄いながら気合を入れている昨今です。
寂しさは 香焚く窓辺 星の夜 あの日あの貌 想うその時
明けましておめでとうございます
新玉の 年の初めの 富士の嶺に 君健やかに あれと祈りぬ
令和5年 元旦
太田新之介
この30年ほど、春の彼岸に植え替えをして、7月には見事な蓮の華を愛でるのを常としていました。
ところが何を思ったのか、この二年は葉ばかりが育ち、芽も出ず華の姿を観ることができませんでした。
土も替え、肥料の身欠きニシンも欠かさずそれは大切にしてきました。
まさか新型コロナウイルスの所為では、と疑ってもみましたが、二年も咲かずにいると愛想が尽き、この辺が潮時かと思うに至り、芽が出ていた蓮根をすべて処分すべく、ゴミ袋に入れて捨てる用意をしました。
5日ほど経ったごみ収集の朝、ふと、少し萎れた蓮根に話かけました。
「今年、華を咲かせなかったら、オロシガネですりおろしてしまうからな!」。
有名な大賀ハスの交配種であり、長年連れ添ってきた仲なので、ラストチャンスと思ったのでした。
鉢は二つありましたが一つにして、芽付きの根を四本入れました。
多分弱っているのでダメかとも思い、今回は土だけ替え、肥料は施しませんでした。
それが7月5日の早朝、芽を出し、あれよあれよという間に成長し、立派な華を開くに至ったのでした。
そして続きの二つの華も。
このところコロナ禍やウクライナ戦争、元首相襲撃など暗いニュースが多く、仕事に没頭していることをせめてもの救いとしている最中、蓮の開花は嬉しい出来事でした。
(そのつもりになれば咲けるじゃないか・・・)
などと紅蓮の華に話かけ、来年も呪文をかけてやるぞ、と独りほくそ笑んでいます。
生き物は命の危機に直面すると思いがけない力を出す、とは先人の言。私も何時の間にか喜寿の歳。日々が命の危機に直面しているといえばいえる年寄りです。
極楽浄土を思わせる蓮の美しさに心を洗われ、改めて「今ココ」を一心に生きて行こうと思い、蓮の台に座った仏の姿に掌を合わせました。
〽 蓮の色香に迷ったアナタ 「それって、ネ」 チホウかニンチかワクチンか
去年の春から準備をしていた都々逸第3巻が出版の運びとなりました。
仕事が忙しく、コロナ禍やウクライナショックもある中で漸くというところです。
このシリーズは都々逸第、俳句、和歌のそれぞれ3巻に総合編1巻を加えた全10巻の予定です。
残り7巻の原稿は出来ていて、出版の準備を始めたいと思ってはいるのですが、未だ先になりそうです。
都々逸第は幼い頃から耳にしていて、折々に母が唄っていたことから調子が肌に染み込んでいるものです。
横浜に住んだ20代には、辰巳芸者や新橋芸者とお座敷に興じ、「お若いのに都々逸を唄って・・・」と珍しがられ、それが嬉しくて通ったものです。ませた青春でした。
30代は熱海や伊豆長岡、修善寺温泉の芸者衆と興じ、京都祇園や各地の芸者衆とお座敷遊びをしたものです。中でも伊豆長岡芸者の文奴姐さんとは、何度か旅館の離れで都々逸合戦に興じました。御年80のお姐さんと30半ばの即興都々逸唄合戦は、粋なものでした。
ことの始まりは生家の八畳の座敷でした。
父は大船頭をしていた関係で、何かといえば漁師たちが家に集まり、酒を酌み交わしては歌をうたい大騒ぎをするのが常でした。
その宴の最後に必ず母へのリクエストがあり、母は後片付けを中断して席に入り、2,3曲唄いました。何時も民謡と都々逸でした。
民謡は十八番の「磯節」か「宮城野盆唄」で郷里の唄を、都々逸は数知れずでした。
漁師たちは母が唄い出すと囃しながらも静かに聞き入っていました。
私は3歳の頃から父の膝の上で、母の心地良い唄を聴いていました。そして小学生になる頃には、母の十八番を唄うようになっていました。
その後、都々逸にはまったのは、芸者衆に褒められたことと七,七、七、五の26文字に託された言葉が人生を謳う応援歌に思え、また作詞も「禅語」に魅された時期と重なり、都々逸も禅語も同じ領域のものと得心したことによります。
都々逸を知り、唄い、爪弾き、詞を作って早60年余。作詞の数は3000余に及びます。折にふれ人生の妙味を詞に託す楽しみは、何にもまして私を励まし、そしてまた亡き母を思い出す魔法の鍵となっています。
今、改めて3巻の都々逸を読み返してみると、70年の人生が凝縮しているように思います。
あの時、あの人、あの場所で、時は過ぎてゆく…。
過ぎ去る人生時間を堪能し、幾つになっても「カアチャン教」の信者だなぁ、と思うこの頃です。
〽 都々逸は 唄い爪弾く あの世の母と 会える魔法さ 子守唄
高速ワイパーも役立たない激しい雨の中、一路木曽へ。
助手席に乗った私は、同行の二人と話をしながらも、心は巡り会うだろう檜の大木に思いを馳せていました。
設計をしている時から使用木材に思いを致し、調達への行動は、まるで恋人を探すことに似て、何時ものことながら、ワクワクの心中でした。
木の建築を創り始めて40年余の歳月が流れていますが、この想いに色褪せることはありません。
今回求めたのは樹齢300年以上の天然「木曽檜(きそひのき・きそひ)」です。
「伊勢神宮」と同じ木曽檜で、と。
30年前、岐阜瑞龍寺僧堂再建の仕事に就いていた頃、何度か訪ねた木曽郡上松町の池田木材は、皇居宮殿から全国の名のある神社仏閣に木曽材を納めている材木問屋で、設計当初から出来ることなら調達のお願いをするつもりでいました。
先ずは神の鎮まります霊なる床之間の屋根の大唐破風で長さ4.5メートルの曲がり木2枚。
5月11日に木曽へ出向き、有難くも良き出会いに恵まれました。
原寸の型板を置いた時の曲がり具合の良さに惚れました。樹齢は約350年。
次は長さ8メートルの水引虹梁(みずひきこうりょう)。
床正面の結界でもある横一文字の直線材で、この長物は調達不可材といわれ、あっても正面に大きな節が出て、大概は節を取り埋木をして使われているものです。
用意されたものは良材でしたが、正面に小節が幾つか出ていて、埋木の始末で採用できる範囲の材でしたが、何故か気持ちが動かず、他材をお願いして帰途につきました。
帰りの車中は、大破風のウキウキと虹梁のウツウツが交差して、恋多きオヤジの苦しみが滲み出ていた4時間でした。
「30年乾燥してあるのが見つかりました。製材に立ち会ってくれますか?」、との連絡が入り、5月27日再び木曽路へ。
真っ黒になった肌がみるみる白くなって行く…。
曲がりのない真っ直ぐ。願ってもない木味(きあじ・肌合い)。
正面に僅かな節の影はあるが、稀にみる美麗な檜。
高貴な色合い。芳しい香り…。
極上といえるものだった。
私の脳裏にはこの材が虹梁として霊床の結界として付いた情景が浮かんだ。
すぐさまオッケーを出し、設計パートナーと共に材にサインをしました。
樹齢400年といえば江戸時代初期に木曽北沢地区の北向き斜面に芽を出し、それが時を経て箱根に建設される霊なる床の主材として使われる縁(えにし)。
(求めつづけて諦めない…)。
先ずは良かった!材が有れば大工仕事ができる、と。夕暮れの富士は北斎の三十六景を思わせる美しい姿でした。
大雨に木曽檜を探ね上松に 待つは貴なるや神の虹梁(にじばり)
今、建設業界では工事費高騰が始まり戦々恐々としています。
コロナ禍で品不足や価格上昇が続き、ここへ来てウクライナショックで、原油や小麦を始めあらゆるものが値上傾向となりました。
改めてロシアの侵攻が私達の暮らしに直結していることを知らされ、あらゆる業態で価格高騰、人手不足、材料や機器調達難、工期遅延が常態化してきそうです。
私はどうしたら良いのか?
このところこの問いに遭遇しています。
そして解答のないまま仕事の設計に対かい、自問自答を繰り返す毎日です。
(21世紀にもなって虐殺的な侵略が起きるとは?)
(なぜプーチンのような極悪非道の殺人鬼がいるのか?)
(生物や核兵器が抑止力ではなく使用可兵器となるのか?)
(地球を覆うのはフェイクニュースばかり?)
(人間の良心というものの儚さ…)
(人類は滅亡に向かいダッシュを始めた?)
(建築の設計はこれらの問いには無力と?)
(神も仏もあるものか!)
(また末法の世に…)
銃を持った者が問答無用で襲って来たら、座して死を待つか、それとも立ち向かうか。
ロシアが北海道に攻めて来たらどうするのか?
これから憲法9条はこの観点から改正に動くのではないかと思います。
核攻撃に対しては、核を持って戦うのではなく、核に勝る兵器を開発するか、核や生物兵器による攻撃を無力化する、システム兵器を独自に開発できないか、と思案しています。
歴史が証明している通り、人間は争いから逃れることはできず、争うための武器は無くなることはなく、日々進化させ作り続けているものです。またそれが自滅の道とも知らずに…。
デスクワークが過ぎると散歩に出かけます。
「鮎止めの滝」の轟音を体で聴きながら、ウクライナでの戦闘を思っています。
非力であることを感じながら、設計で世のお役に立てるのが我が務めと思いながら…。
先日のネット記事に石川雲蝶の名を見ました。
一瞬にして30数年前の私が甦りました。
この折に彫刻の師としていたのが、立川和四郎富棟と石川雲蝶でした。
岐阜瑞龍寺僧堂の再建に就いていた頃、彫刻のデザインをしていた頃です。
再建は12年に及びましたが、この間は木造寺院の彫刻のデザインに悶々としていました。
描いた原寸図は百数十枚に及び、実際出来たものは30作ほどでした。
立川和四郎富棟(1744-1807)は長野県諏訪市(信濃国諏訪郡高島城下の下桑原村)の桶職人の次男として生まれました。
江戸へ出て幕府作事方の立川小兵衛富房に奉公し、寺社建築を修行の末、「立川」の名乗りを許され、彫刻を中沢五兵衛に学んだ後、帰郷したといいます。
安永3年(1774年)の惣持院、白岩観音堂(茅野市)を手始めに寺社建築と彫刻の制作を開始し、同9年(1780年)諏訪大社下社秋宮の幣拝殿(重要文化財)を建てて名声を高めました。
その後、寛政元年(1789年)に善光寺大勧進表門、享和2年(1802年)から一門で30年にわたり静岡浅間神社の彫刻を手掛けています。
諏訪大社や浅間神社に何度も通い、立川流に教えられた建築彫刻は、彫刻棟梁として伝統を繋いだ初代和四郎富棟からの美よる救いというものでした。
また江戸時代の末期、彫物の名工と謳われた石川雲蝶(うんちょう)(1814-1883)は、個人の妙技と才能において木彫りだけに留まらず、石彫りから絵画にまで及んでいました。
「日本のミケランジェロ」と称される所以です。
その雲蝶が残した作品は新潟県各地の寺社仏閣に残り、150年の時を経てなお人々を魅了しています。作品は関東から鷹ノ巣温泉に向かう道に点在しており、実見はしていませんが、写真や資料で見てもその圧倒的な存在感は伝わってきます。
酒と女に目がなく、現在ではネットで叩かれ、世に出ることは難しいと思いますが、将に鬼才彫刻家の面目躍如というものでした。
二人の彫刻と会話した折々の情景は、今尚、私の設計手法に大きな影響を与えています。
「只、黙々と、コツコツと、得心するまで、一心に…」
世はロシアの軍事侵攻で大混乱をきたしている最中。
ウクライナへの侵略映像を観るたびに胸が痛みます。
日本ではそれ程深刻な状況を迎えているわけではありませんが、これから先には耐え難い日常が待っている可能性もあります。
昨今は、様々なニュースが飛び交い、何処の誰を、何を信じて良いのか分からなくなっている時代ともいえます。
私は何をしたら、どうしたら良いのか、と自問する日々です。
今は、「心配するな、なるようになる!」との一休禅師の言葉を思い出し、只、コツコツと眼の前の仕事に対う自分を励ましているところです。
少しでも後世のためになればと…。
写真: 上 諏訪大社下社
下 西福寺開山堂(魚沼市)
箱根に登る途中、車を止め、駿河湾に落ちる夕陽を見ていました。
身の引き締まる冷気の中に在って、何故か心は熱く燃えている・・・。
眺めやること数分、西方浄土を彷彿とさせる光景が激変し、突如、大空を舞う巨大な鳳凰が出現。
まさに「彩鳳舞丹霄」(さいほうたんしょうにまう)。
吉瑞の兆に他ならないと思いました。
大自然の中に身を措くと日常の些末な出来事は失せ、この身は大気に溶け込み、我という存在は雲散霧消していきます。
時間と空間の四次元にエネルギーと志向の六次元を実感できる、贅沢な時間でした。
目的だった来客用の茶花を採り、高揚した心と共に山を下りました。
下りながら自然に身を置くことは、今を生きる自分を実感することだ、と今更のように思いました。
またこの時、決めかねていた建築のデザインが何事もなく整っていることに気付きました。
だがしかし、この西方のまたその向こうのウクライナでは地獄の様相に・・・。
何もできない私は、せめて眼の前の務めを果たすだけだ、との思いに至りました。
写真:箱根中腹から駿河の海を望む
新年、世は新型コロナ・オミクロン株に右往左往しています。
人類は地球上に生息している限り、ウイルスと共存して行く運命にあるようです。
私にとっての去年は仕事対応の日々で、ほぼ無休日というとても印象深い年となりました。また12月で後期高齢者を脱し、漸く晩期高齢者の仲間入りとなりました。
やせ我慢が強い性格上、表面的には意気軒高を装っていますが、それなりの年寄りの新年という分けです。
去年の出来事の中で印象に残ったひとつが、「日本人のルーツは大陸ではなかった」、との研究成果が発表されたことでした。
DNAの研究を始め、気象、言語、植生、土器などの工芸デザインなど、旧石器から縄文時代にかけての発掘調査・研究が進んだ成果といいます。
定説では、日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島に移住してきた時に始まり、終わりは1万6500年前とされています。
日本列島での人類の足跡は12万年前(島根県砂原遺跡ほか列島全体で数千カ所)。地質学的には更新世(約258万年前~1万年前)で、殆どが氷河期といわれる時代です。
その12万年前の日本列島には日本人が住んでいた…。
2500年前から口伝の歴史書「飛騨の口碑」を世に広めた山本健造は、新人類の祖はアフリカではなく日本列島にも原日本人が生まれていた、との研究発表をしています。
その最初の地は乗鞍岳一帯で、原ニホンザルが生息していたこともその証だとしています。つまり原日本人が日本人の先祖であり、大陸からの渡来人ではないと、地球物理学や遺伝学、気象学の分野などから明言しています。
20年前、私は意匠と文様というデザインの分野からこの山本説を支持し、現在に至っています。その文様のひとつに「渦巻き文」があります。知る限りでは世界最古の文様とされていますが、我が祖先は自然現象の渦巻きを点や線から螺旋状の文様を創り出したのだと思います。
手元に置く縄文土器の文様は縄の文と共に螺旋状の渦巻き文が多く、縄文中期の火焔土器を始め現代のアイヌの文様に至るまで、圧倒的な存在感を見せています。
私は建築の構想を練る際に、何時しか螺旋状のスケッチを描いていることに気がつきます。時折、このスケッチは遺伝子情報を秘めている螺旋状のDNAの図ではないか、生き物が昇天する際のスパイラル現象では、とも思うことも度々です。
太古の祖先の渦巻き文を何十万年経った今も私は描いている。何という命の継続か、とも思います。
新春の富士山を眺望しながら、トンガの火山噴火を想い、現在取り組んでいる建築の設計に思いを馳せ、今年は知行合一であれと念じたところです。
オミコロナにもお手柔らかにと…。
写真: 火焔土器(縄文中期 約5500年前)
伝 新潟県十日町信濃川付近(馬高遺跡)出土