Sのプロジェクト
子供の頃、父方の親戚は伊豆半島西海岸沿いに多いと聞いていました。
記憶に残っているルーツ話は、源頼朝が鎌倉に幕府を開く時、関東一円から大勢の工人を呼び寄せ、その折京都から招かれた工匠たちがいて、彼らは神社仏閣の造営に携わったといます。
伊豆に流された頼朝は、伊豆と三嶋大社との縁の深かったこともあり、工匠たちに神社仏閣の造営をさせたようで、三島から韮山、中伊豆にかけて鎌倉時代創建の寺院が多いのはそのためで、北条政子の実家である執権北条家の故郷ということもあったと聞きました。
その工匠の中から、気候温暖で住みやすいこの地に住み着いた者たちがいました。彼らは京、大阪の、最先端都市で仕事をしていたこともあり、この田舎では大いに歓待を受け、地元の娘を娶り一家を構えるようになったようです。
やがて彼らの中から、館や住宅の仕事ばかりではなく、難しい仕事といわれる船大工になった者たちが出て、より高度な船造りをしたとのことです。
昭和30年代まで伊豆西海岸一帯に腕の優れた船大工がいた訳は、遠く鎌倉時代に遡るということになるようです。
江戸の安政元年、伊豆・下田一帯は安政南海地震と、大津波に見舞われました。
ロシアのフリゲート艦が下田に入港していて大破し、破損した船体を修復すべく、幕府の許しを得て戸田村へ向かったディアナ号は、途中風波に遭い沈没しました。
遭難したロシア人たちは、宮島村(静岡県富士市)に上陸して、救難対策を講じられていた。地元民は大地震の被災後で自分たちの衣食住もままならぬのに、親身になって手を差し伸べました。
艦長のプチャーチンは日露和親条約締結後、帰国用の代替船の建造を幕府に願い出て許可され、戸田村・牛ケ洞における帆船の建造が始まり、日本人官民合同で300人と、ロシア人500人が加わり、日本史上稀に見る日露合同プロジェクトが展開された。洋式帆船建造は着工から三ヶ月という短期間で、2本マストの小さな帆船が竣工し、これを「ヘダ号」と名付けたといいます。
「ヘダ号」はロシアのニコライエフスクまで航行し船員は無事帰還し、これを機に日露の友好が進んだといいます。
この時の戸田村の大工の一人が私の父方の先祖のひとりだと聞きました。
戸田や田子、浮橋方面に親戚が多かったのは、大工が京から仕事に来たことから始まったとのことでした。
その大工の親、そのまた親とずっと先に辿って行くと、縄文期や旧石器時代、原日本人に行き着きます。
私が木の建築造りに勤しんでいるのは、案外、輪廻転生の生まれ変わりの意識かもしれないと、この頃思うようになりました。
「三島御寮」造営プランは、先祖さんが一緒にやっているように思う時があります。そのように考えれば、自分が見たこともないような建築のすがた・かたちが現れてくるのも合点が行くというものです。
私もいずれ先祖の仲間入り。
有難いことだと思っています。
画像:「ヘダ号」の図面と模型