日本のすがた・かたち
高校の同窓生と10年後に再会したら、彼はその高校の教師になっていました。
学校の先生タイプとは思っていなかったので驚いたものですが、彼は逆に私が建築家として生きようとしていることに驚いたようでした。
10年の歳月は人間を変えるに十分な時間ですし、ましてや若い頃は何でも有りなので、七変化も不思議ではありません。
寡黙だった彼が何故様変わりしたのか話をしていて納得できました。彼はバリバリの共産党員でした。
話題の中心は共産主義の無神論についてでした。
彼は神仏の存在は認めないと頑強でした。無神論者としての誇りさえ感じさせていました。この世の中が共産主義社会とならない限り人類に幸せは訪れないとも言い放ち、私に共産党へ入った方が良いと…。
(この主義も一種の宗教といえるのになぁ…)
その時、私はそう思っていました。
後年、世に喧伝される民主主義や社会主義、共産主義、今流行りの保護主義や商業主義、覇権主義、まで、昨今は主義のオンパレードで、整理するに一苦労です。
主義のいうところは、自分の拠り所でそれが皆で共有すれば幸福になる、というものです。主義を持つ政治は時の勢力の志向により定められ、確たる正しい主義はないもので、すべては一過性のものといえます。つまり時代の価値観を表現した思想といえます。
冷戦時代にあれほど猛威を振るったソ連の社会主義も今では跡形もなく、誰も評価をすることもなく、過ぎでいます。今の中国も権力者が力を失えば同じ道を歩むはずです。
あれから40年、彼の消息は分かりませんが、あの時に私の問いに答えてくれなかったことだけが今も残っています。
「無神論者を標榜するのもよいが、お前は神や仏を一度たりとも我がものにしたことがあるのか?神仏にかかわるお前の見解を聞かせてくれ。ないとしたら、それは無関心論者というものだ。」
「……」
彼は共産主義を旗印にこの世を生きたかと思いますが、もし再会することがあれば、主義で生きたことがどうだったのか聞いてみたい気もします。日本人はキリストの教えにいう、人間「平等」観は薄く、国民を覆っているのは「公平」観です。人間はあらゆることに平等ではなく、劣る者には優る者が補い、足らぬ者には足る者が満たす、という互助観念です。
私は共産主義や社会主義が日本を覆うことがないと思っています。
その根拠は、公平観であり他人に迷惑をかけまいとする自助努力が「恥」という柱で支えられていると観ているからです。この観方は、木の建築を造ってきた経験からきています。
先人は建築する行為を「普請」といってきました。普く請うことが建物を造るとことだという考え方です。人々は補い合い、木は夫々の特性を発揮し、互いに組み合って巨大な建築を構成して行く。まさに公平を地で行っている観があります。
まあ、「人生に意味なし」と思いながら過ごしている私には、その主義の話も興味は薄く、それより互いに歳をとった感想を話しながら、老いて益々盛んのつもりの我が身に思いを致すのも良いかと。
早咲きの伊豆河津桜を観ながら、この頃、還暦の人に会うと、(若造だな、未熟者奴が!)と思うようになっていることに気付き、私も10年前には先輩諸氏にそう思われていたのかと、ニンマリしていました。
写真:伊豆「河津桜」原木