日本のすがた・かたち

2017年1月25日
私という肉体

170125.jpg私は長いこと肉体の中に自我が在ると思っていましたが、ある時事故に遭って、本当は自我の中に肉体が在るというのが正しいと思うに至りました。

肉体は運動や仕事をするための器官に過ぎず、自我の意識とは別なるものと確信したのでした。

事故とは若い時に高圧電流に触れて死にかけ助かったことですが、臨死の際、彼岸へ渡る直前に、肉体ではなく、意識が此岸に留まる意思をもったことで蘇生した感覚が残りました。

この感覚は幾つになっても鮮明に思い出されます。

 

以来、自我(意識)は眼耳鼻舌身の五感をもつ肉体とは異なる存在で、脳で感知し思考するものは自我の意識ではなく、それは太古から祖先が示唆してきた人間の霊、魂、透視、念写、念の物質化、念による情報伝達というような、科学では知覚できない意識が在ると考えるようになりました。

 

人の自我の意識はなぜ肉体という機能器官の中にないのか。

なぜ人間は肉体を得たゆえに、肉体を維持するためのものだけを感じるのか。

眼は見るためのものではなく、見るものを(食物・危険)制限するための器官。耳もそうだ。

生存と生殖のために食物と危険を感知するだけの肉体機能・・・。

 

後年、釈迦は「菩提」や「慈悲」で道徳、恩、愛、真理などを直覚する超能力の存在を顕し、フランスの哲学者ベルグソンは「脳は刺激を受け、運動を起こすだけのものである。知覚は脳の中にあるのではなく、知覚する物の所にある」と、人間の意識の存在をいっています。

科学は人間の認識能力の知覚と直覚の「知覚」の分野を扱い宇宙の法則に沿った「変化」を扱いますが、近年、ニュートリノに質量があるなどの発見もあり、後々この「直覚」の存在を扱うことこができるのか、興味の湧くところです。

 

私は時折「精神エネルギーによる感応治療」と思える施術を受けることがあります。肉体の一部である脳が人間の創造や思考するあらゆる創造域を担っていると思っていた頃は、霊魂や想念というようなオカルト的な考えでものごとは変化しないと思っていました。それがこの時に感じる波動こそ、人間の肉体と自我の意識は別物なのだ、と思えるものでした。

 

現在、「24世紀へのメッセージ」という「三島御寮」造営計画に勤しんでいます。

設計図を描きながら、ふと、この作業は脳を持つ肉体がさせているのではなく、私の意識が肉体を使って鉛筆を削らせ、図面を描かせているな、と思うことがあります。そういえば、なぜ見たこともないような構想が浮かんでくるのか、この不可思議さは多分・・・。

眼前に縄文期中空土偶の不思議な貌と眼が在り、私を見つめています。

                                                         

写真:刺突(しとつ)文大型中空土偶(縄文晩期)

                                                                                                                                                                    


2017年1月25日