日本のすがた・かたち
この秋の十月末に催す茶事で、およそ二百会を超える茶事・茶会となります。
約三十年間の歳月を要しましたが、過ぎてみればアッという間です。
30代で何も知らず、分かったよう顔をして設計した茶室。
この恥ずかしい仕事によって茶の湯の世界に飛び込みました。
40過ぎに茶室を造ってから本格的に始めた茶事が、今日まで続くとは夢にも思わなかったことですが、生存競争の中の無我夢中の遊びでした。
このところ次の「名残の茶事」の道具組をしています。
茶事で使う茶道具の組み合わせを計画するもので、それを書いたものを会記といいます。次回で210回目となります。
大半の会記は残っていますので、参考までに改めて見てみると懐かしい情景がいくつも甦ってきます。すでに亡くなった人も多く、隔世の感があります。
茶事・茶会の面白さは何の遊びにも優り、遊び人になってきて良かったなあ、と思う昨今です。
私の思うところの遊びは、数を重ねると、体力の衰えと共に面白さが増すこと。仲間が増える楽しみがあること。水とお茶さえあれば交じり合えること…。
そして亭主は、企画、構成、演出、主演、監督、プロデューサー兼務ができること。
広げていえば、日本の文化の粋を堪能できるので、やめられないとまらないことなどです。
茶聖千利休は、最晩年の天正18年(1590)から19年にかけて、『利休百会記』としてその記録が伝わるおよそ百会の茶会を開いたといいます。
大徳寺の禅僧、徳川家康や毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、その他多様な人々が利休の茶会を訪れていると書かれています。
またこの茶会記には、利休愛用の「橋立」の茶壷などの道具を用いた様子、利休七種にもあげられる赤楽茶碗「木守」や、さらには懐石の献立なども記されており、利休晩年の茶の湯をうかがい知ることができるものです。
私の茶会記は先人に及ぶものではなく、道具とて自慢できるものはなく、ないものは自作のもので賄い、懐石も家庭料理の延長のようなもので、何とか間に合わせてきたものです。
客は折々に親しく交誼して頂いている有縁の方で、著名人は知らず、共に市井に生きる人たちです。
しかし、茶事・茶会の面白さは三十年経った今でも変わらず、ますますその度合いが増していて、この頃は若者と一会を過ごすことの楽しみも増えてきました。
次代を担う若者たちに、先人が伝えてきた遊行の茶事を体験してもらい、日本人の優れた記憶を少しでも受け取ってもらえると有難いと思っているところです。
私も遠からず茶事ができなくなりますが、できる間は若者が茶事を通して、日本の、日本人の美意識を獲得して行く手助けができればと思っています。
今、茶会記に載せる茶杓を削る準備を始めています。
写真: 引出黒茶碗 銘「スーパームーン」(名月) 自作 繕い有り