日本のすがた・かたち
いっせいに曼珠沙華が咲き始めました。
この赤い花には子供の頃からの思い入れがあります。
毎年、秋の彼岸に咲き、真紅で葉のないすがたは異様といえば異様ですが、私には好みの花で、日常を省みては、先人を思い出す花となっています。
数万年の昔から先祖はこの列島に棲み付き、営々と生活を営み、子孫を遺してきました。その子孫のひとりが現在の私ですが、私がこの世に生まれ、育ち、そして姿を消して行くことは何の不思議のないことです。
先輩諸氏からは叱られそうですが、70年も生きてくれば何の文句もなく、過不足もないものといえます。
人間の生は、結局、「生まれ、食うて、寝て、そして死ぬ」という大原則から逃れることはなく、これについては時間と共に何人も平等で、生きる時間の長短はあっても、皆同じところで生きています。不安も苦しみも平等に与えられています。その量や軽重に差はありません。あるとしたらそう思える量の差といえます。
若い頃は、経験こそが我が財産とばかりに、何でも心の赴くまま、面白いと思うことや綺麗で美しいと思うものは選別することなく、自分という袋に詰め込み、これでもかというほどギュウギュウ詰めをしてきました。それが私を生かす智慧の源泉になると信じていました。その考え方がこの頃、変化していることに気がつきました。
現在では美しいものではなく、美しいことに憧れるようになってきました。
美しいこととは何か…。
さて美しいこととは何か、と考えるようになってから10年ほど経ちますが、現在の結論はほぼひとつ。
その都度美しいことが変わるということです。
裏を返せば、美しいと思えるものには実態がなく、その時そのように感じる自分の心があるからということになります。千差万別で、10人いれば10人の美しいことがあるということです。諸行無常の様です。
それぞれに美しいことの意識があるとすれば、その意識の元は何処から生まれているのか。それは多分、自然の風光から育まれた生活習慣や風習から生まれているのだろうと思います。
先賢は「人間の品性は美しいものに触れることによって磨かれる」と言っています。
この頃は本当にそうだと思うようになりました。
私の意識の中に常住するのは、「朽ちて大地に還る木の建築」ですが、美しいことを選別するフィルターとして機能しているのは、多分、「茶の湯」ではないかと思っています。
現在、茶の湯のステージ「三島御寮」の造営を志している大本は、茶の湯による美しいことへの憧れではないか。そう思い至っています。
過不足のない昼下がり 曼珠沙華