日本のすがた・かたち
建築の設計は、おぼろげな構想を描くことから始まります。
クライアントからの条件や要望を基にして、空想する分けですが、この折の私の状態はというと、「ぼんやり」していると人にいわれます。
川のほとりなどでぼんやりしている時間は、実は最も大事な時間で、このぼんやりが完成する建築のすがた・かたちを決めています。
何事にもいえることだと思いますが、構想は独りでするもので、孤立無援の作業となります。
小学生の時、生家近くの飯場(はんば・作業員宿舎)に寝起きしていた土方(土工)たちから、ガクシ(学士)さんと呼ばれていたニヒルな小父さんと出合った。
小父さんは英語を教えてくれ、いつも世の中で一番偉いのはケンチクカだといっていた。
後年、そのケンチクカを志すことになった。有ったのは志だけだった。
独立して三年目に仕事で裁判沙汰に遭った。あまりの辛さから止めようと思った。その折、人生の師となるひとりの禅僧に遇った。借財は得たが以来40年、自分の理想とするケンチクカ像を求めてきた。
その間はというと、独りぼっちの「ぼんやり」だけだった。
建築家は森羅万象に通じ、いかなる制約組織に属さず、いかなるひとの求めに応じ、そして有縁の仕事に精魂を傾けるものです。この思いは今も変わっていません。
この6月で事務所創立満40年の区切りとなります。
所属団体を離れ、組織を解散し、独りの建築家としてこの先を目指し、依頼主の期待に応えて行こうと心に決めています。
現在取り組んでいる「Sのプロジェクト」・木の建築造営計画への思いは、建築家を志したころの自分と似ています。その志しかない私の活動を見兼ね、仲間たちが会社設立に動き、造営計画の実現を目指して一緒に歩む準備をしてくれています。生きてきた70年間はこの仲間たちの存在によって証明されているように思います。
土方の小父さんとの出会いがすべての始まりだったようです。
私も今、小父さんを見習う毎日を送っています。
主(ぬし)はぼんやり何処見ていやる 姿かたちかこの胸か (自作都々逸)
写真: 上 熱海「水晶殿」 (近作 改修設計)
下 「唯心田耕」 (太田洞水老師 筆)