日本のすがた・かたち
昨年夏、『伊勢神宮』を上梓しました。
これで二十年来の参究に一区切りがついたと思ったのですが、胸の裡にはスッキリしないものが残っていました。
『伊勢神宮』は二五〇〇年間伝えられてきた飛騨の口碑(言伝え)があって本となったといえるもので、口碑を伝えた故山本健造氏に感謝するものでした。
しかし、それで気が済まなくなったのも事実でした。
口碑を得て、ますます日本古代史の謎が深まったのです。
謎のひとつは九州倭国(大宰府)から法隆寺が移築されたという説でした。
最近、古代建築について調べていたら、「五重塔の心柱 五九四年の伐採確定に思う 米田良三氏に聞く」〈古田史学会報2001年4月22日 No.43〉という、一文を知りました。
概要は次のようなものです。
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「二月二一日の朝刊はいっせいに法隆寺の五重塔の心柱が五九四年の伐採と確定できたことを報じた。奈良国立文化財研究所が年輪年代法で突き止めたというものである。これを受けて、法隆寺の謎深まるという報道が溢れ出したようだ。
六〇七年に聖徳太子によって創建された法隆寺は、六七〇年に焼失、八世紀始めに再建されたというのが現在の定説とされている。この立場からすると、今回の五九四年伐採確定は、 1. 原木が長期間貯蔵されていた 2. 別の寺の塔の心柱が再利用された、といった説明へ導くことになろう。
しかし、以前から法隆寺は筑紫の観世音寺が移築されたという説を唱え、『法隆寺は移築された』『建築から古代を解く』などの著者である米田良三氏には不思議でも謎でもない。そこで、米田氏に今回の発表を聞いた感想などをおうかがいした。(聞き手:編集部)」
○モヤモヤは晴れない
今回の発表でモヤモヤが晴れたという心境ではないんです。というのは発表の仕方、内容に今一つ、スッキリしないものを感じるからです。八七年に発表された時は五九一年の年輪としながら、ヒノキには建築材料として不適な白太の部分が五三±一七年分あると推定して、結局心柱の伐採は六四四年、早くても六二七年としていたわけです。
私は六〇七年に創建された観世音寺が後に移築されて法隆寺となったと考えていますので、六二七年とか、六四四年の伐採では自分の説とは合いませんでした。それが今回、五九四年伐採確定となったわけですから、その限りでは嬉しい発表ではあることは確かです。
三月二日の朝日新聞夕刊に「法隆寺心柱のなぞ」という特集記事がでました。心柱の伐採と再建との時期は一〇〇年以上ということになったが、このギャップをどう説明するのか?
この記事では再利用説、貯木説、二寺併存説などを紹介しています。そして、どの説にも大きな弱点があるとして、全否定のような内容になっています。どんな意図でこんな特集を組んだのか、疑問に思うような記事です。
再利用説では若草伽藍の塔の心柱、飛鳥寺の心柱などを候補に挙げています。飛鳥寺の心柱説は梅原 猛氏が唱えていますが、書紀は飛鳥寺の造営過程を結構詳しく書いています。推古元年、五九三年の春正月に心柱を建てたとあります。寺の完成は推古四年です。梅原さんは書紀のこの記述を知った上で自説を唱えられたのかどうか。
貯木説は心柱というものは転用するものではない、原木は貯木場においてあったと考えるしかないという。一〇〇年間も貯木というのも変です。二寺並存説は若草伽藍と今の西院伽藍は別々の寺として同時期に併存していたというものです。
私がスッキリしないと感じているのは、同じ年輪をみているのに、伐採年が以前は六二七年で、今回は五九四年になったということです。
少し詳しく説明しますと、前回心柱の最外郭の年輪は五九一年と判断されたのですが、今回は五九一年の年輪の外に三年分年輪があることがわかり、五九四年と発表しています。しかし、前回年輪を見逃したとは考えられず、ものさしである暦年標準パターンに修正が加わったと考えるべきかどうか。説明が不足していてよくわかりません。どちらにしても心柱の最外郭の年輪を前回Aだと言って、今回Bだと言う。ふたつの判断が生きています。科学者、研究者の態度としては、おかしいといわざるをえない。まず、前回のAは間違いだったと認め、なぜ今度は違った結論になったのか、その辺の説明があれば、誰にもよくわかるはずです。
年輪年代法そのものは、すばらしいものだと思います。しかし、使い方がおかしければ、逆効果です。科学的に処理してもらえれば、これ以上のものさしはないといってよいと思います。
○移築説に到達するまで
私が法隆寺は観世音寺が移築されたものだと考えるようになったのは、建築史の研究からです。奈良時代の前が飛鳥時代ですが、飛鳥時代の近畿地方の(五重)塔の心柱は掘立柱でした。遺跡の発掘からわかることです。ところが、現在飛鳥時代の建築として残っているものは、皆、基壇に据えた礎石の上に立っています。掘立柱と礎石とは明らかに技術がちがいます。
それで、現存する飛鳥時代の建築といわれるものは、どこからか移築されたのではないかと考えたのです。どこかといえば、当時の状況からして自ずと九州から、ということになって、いろいろ調べてみると、裏付ける資料が見つかったのです。
法隆寺の西院伽藍だけでなく、夢殿を中心とする東院伽藍、法輪寺、法起寺などは一連のものとして移築されたのではないかと思います。
吉野宮(吉野ヶ里からの移築)、伊勢神宮、薬師寺、長谷寺、東大寺、三十三間堂、さらに時代はぐっと新しいのですが、桂離宮も移築されたと考えています。 移築という発想のもう一つの契機となったのが六七八年の白鳳大地震を知ったことです。この時、飛鳥では回廊の壁が発見されて話題を呼んだ山田寺を始め、掘立柱系の多くの建物が崩壊したのではないかと思われます。ところが、九州の建物はまったく壊れていない、無傷だったのです。そこで、大和政権は震災からの復興に九州の建物を移築したのではないかと思いついたのです。― 〔本記事は『多元』四二号より転載]
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この一文から、飛騨の口碑のいまひとつ理解できなかった古代日本のすがたが、この心柱から見えてきたように思いました。それは九州倭国と難波大和国との関係でした。
解ってきたのは、伊勢神宮を創建したといわれる持統天皇は正式に即位していないとされ、正式に「日本国」になったのは、大和朝廷が藤原京に都を作った694年で、42代文武天皇が697年に天皇に即位した年という九州王朝説があることでした。
また、初代神武帝から41代持統天皇までは、「九州天皇家倭国」の時代で、難波に進出したのは、696年に「難波天皇家大和国」で即位し、藤原不比等等によって暗殺された、九州倭国最期の高市天皇で、天武天皇崩御から何年か天皇空位が続き、持統天皇が継承したのがこの暗殺事件後とのこと。興味ある経緯です。また奈良に都は694年の遷都までなかったといっています。
それまでの都は九州で、口碑が伝えるように、古代天皇は九州・四国での逸話が多く、古事記は神話にした作り話ではあるが、根拠のあるものと思われ、「日本書紀」に至っては、大陸・半島や九州倭国の資料を被せて偽史を捏造した可能性が大のようです。
唐突な紹介文でしたが、私は法隆寺は九州大宰府から移築された、という説を否定します。いずれこの件について述べたいと思っています。
飛騨の口碑を立証する旅はまだまだ続きます。
古代史の謎に向かうことは当分止められそうにありません。
写真:TP 法隆寺西院伽藍 上 五重の塔
図面:九州大宰府にあったとされる「観世音寺」古図 (移築されて奈良法隆寺となったというが・・・)