日本のすがた・かたち
先賢はデープな付き合いを避けるようにと教えています。
これは男女のことばかりではなく人との関係のことです。
先賢はこれを「淡交(たんこう)」といいました。
出典は「君子の交わり淡い水の如し」からです。
人は深く交わると理性を失い、冷静な判断ができなくなるというものです。
つまり感情的な判断が勝ると道を誤るということです。
恋愛しかり、夫婦間も他人との交わりも、古今東西これを実証しています。
人間は冷静で客観的な判断が容易な状態を求めて行く生きものようです。
そのため瞑想に耽ったり、坐禅や滝行をしたりと、涙ぐましい努力をしています。しかし、物事にデープに交わる途端にこの努力も無になります。
そこで、先人は失敗を重ねてきた経験から、淡く交わることを勧めてきたのです。
創造的な仕事に就いている人は、物事はデープでなければ中途半端で、堪能できないと思っているふしがあります。この堪能は妄想と錯覚に過ぎないのですが、デープの関係は覚醒剤と同じで心身を麻痺させる作用を起こさせます
私もそうでした。
物と事と深く交わり特に人とは濃密に交わることが善し、としてきました。淡交などというものは香の抜けたビールと同じで、偽善者のポーズではないかと思っていました。
30歳の頃にある大きな失敗に遭遇したため、冷静で客観的な判断ができるようになるには、と思い悩み、それから二年程坐禅会に参加し、禅僧の指導を受け、一心に自分と向き合っていました。その結果、何も得るものはありませんでした。
最近になって、その折は「真の自己」を探していたのだと気がつきました。
産まれ出てから「ボク、わたし」というようになったのは何歳の頃からだったのか、記憶にありません。現在は「わたし、ボク」と明確にいえます。しかし近い内に認知気味になりその自覚がなくなることは必定です。
ということは、仮に80年の人生だとすると、「私」が私だと思っている時間はその間の長くて70年ということになります。残りの10年分は私ではなくなる訳です。
気がついたのは「私は存在しない」ということでした。
「私」だと思っていたものは、実は得てきた知識や体験という経験の総和でした。
「私には実態がない」ということではないかと思うようになってから、森羅万象が落ち着いて感じられるようになりました。
濃交も淡交も所詮は実態のない「私」がしていることになってから、デープの関係も堪能できるようになりました。
事の幸不幸も「私」が決めているに過ぎないということも…。
現在は「木」とデープの関係を結び、夜な夜な悶えています。
写真 夕日に映える富士
篆刻 「君子之交淡如水」陶印 自作