日本のすがた・かたち
「君が正論だと思っていることも、10人いれば10分の1の正論だよ」
このような話をしながら、このところ若者との論議が続いています。
話をしていて思うことは、「私もそうだったな」と、回想していることです。
40年前の私は、「この地球は自分を中心に回っている」と思っていました。また「人生の時間は無限にあるのではないか」とも。
議論の中身は幸、不幸、苦しみ、喜怒哀楽の考え方についてです。
「なぜ、自分は不幸なのか」
「なぜ、自分は苦しみに会うのか」
私も若い時分は、この命題に直面していました。そして常に、漠とした不安に苛まれていました。
60に近くなる頃、ある人との会話の中で気づかされたことがありました。
「幾つになっても人間の幸、不幸、苦しみに軽重はない」ということでした。
人間は生まれて死ぬまで、幸も不幸も苦しみも皆同じだけもたらされているということです。時間も貸し借りができない平等のもので、幸、不幸も苦しみも要は、その人の心が決めるもので、誰のせいでもなく、誰のためでもないものです。
「自分の心がすべてを決める」。これは私にとっては大きな発見でした。
その発見からどのように人生を考えられるようになったかというと、残念ながら中身は何にも変わりませんでした。
ひとついえるようになったことは、「と、思った」ということでした。
人間の悩みの大半は、対人関係です。家族、親族、異性、友人や交友関係から外国との関係まで、悩みは深く果てがありません。
そこで自分の主張を展開したあとに「……と、思った」、と付け加えるようにしました。
断定せずに、「私の場合は…と思った」という付け足しです。
私の場合はこれが比較的功を奏し、苦しみの軽減に役立っているようです。
今になっても苦楽の量に変化はなく、苦行をしてそこから脱する気力も体力もなく、眼の前にあるのは、「人生には意味がない」という感覚だけです。
この感覚は現在の私にとって最も強靭なエネルギー源で、創造への源泉でもあります。
何処かの国の大統領もホームレスのオジサンも命に軽重はなく皆同じで、その人生には差もなく意味はありません。
あと100年も経つと分かる気がします。
「生まれて食うて、そして死ぬ」
皆同じではないかと思うこの頃です。
写真 今年は華が咲かなかった蓮。共に見える場所に「華」の書を掛けた。