日本のすがた・かたち

2022年3月22日
二人の彫刻師

先日のネット記事に石川雲蝶の名を見ました。

一瞬にして30数年前の私が甦りました。
この折に彫刻の師としていたのが、立川和四郎富棟と石川雲蝶でした。

岐阜瑞龍寺僧堂の再建に就いていた頃、彫刻のデザインをしていた頃です。
再建は12年に及びましたが、この間は木造寺院の彫刻のデザインに悶々としていました。
描いた原寸図は百数十枚に及び、実際出来たものは30作ほどでした。

 

立川和四郎富棟(1744-1807)は長野県諏訪市(信濃国諏訪郡高島城下の下桑原村)の桶職人の次男として生まれました。
江戸へ出て幕府作事方の立川小兵衛富房に奉公し、寺社建築を修行の末、「立川」の名乗りを許され、彫刻を中沢五兵衛に学んだ後、帰郷したといいます。

安永3年(1774年)の惣持院、白岩観音堂(茅野市)を手始めに寺社建築と彫刻の制作を開始し、同9年(1780年)諏訪大社下社秋宮の幣拝殿(重要文化財)を建てて名声を高めました。
その後、寛政元年(1789年)に善光寺大勧進表門、享和2年(1802年)から一門で30年にわたり静岡浅間神社の彫刻を手掛けています。

諏訪大社や浅間神社に何度も通い、立川流に教えられた建築彫刻は、彫刻棟梁として伝統を繋いだ初代和四郎富棟からの美よる救いというものでした。

また江戸時代の末期、彫物の名工と謳われた石川雲蝶(うんちょう)(1814-1883)は、個人の妙技と才能において木彫りだけに留まらず、石彫りから絵画にまで及んでいました。
「日本のミケランジェロ」と称される所以です。

その雲蝶が残した作品は新潟県各地の寺社仏閣に残り、150年の時を経てなお人々を魅了しています。作品は関東から鷹ノ巣温泉に向かう道に点在しており、実見はしていませんが、写真や資料で見てもその圧倒的な存在感は伝わってきます。
酒と女に目がなく、現在ではネットで叩かれ、世に出ることは難しいと思いますが、将に鬼才彫刻家の面目躍如というものでした。

 

二人の彫刻と会話した折々の情景は、今尚、私の設計手法に大きな影響を与えています。

「只、黙々と、コツコツと、得心するまで、一心に…」

世はロシアの軍事侵攻で大混乱をきたしている最中。
ウクライナへの侵略映像を観るたびに胸が痛みます。
日本ではそれ程深刻な状況を迎えているわけではありませんが、これから先には耐え難い日常が待っている可能性もあります。

昨今は、様々なニュースが飛び交い、何処の誰を、何を信じて良いのか分からなくなっている時代ともいえます。
私は何をしたら、どうしたら良いのか、と自問する日々です。

今は、「心配するな、なるようになる!」との一休禅師の言葉を思い出し、只、コツコツと眼の前の仕事に対う自分を励ましているところです。

少しでも後世のためになればと…。

 

 

写真: 上 諏訪大社下社
下 西福寺開山堂(魚沼市)

 


2022年3月22日