日本のすがた・かたち
“ひごろ憎き烏も雪の朝哉”
(日頃憎いカラスも雪のあしたかな)という芭蕉の句です。
句意は、「雪の朝はみな新鮮で、そんな折には普段は薄汚いと敬遠しているカラスでさえも雪に映って、普段と違う感慨をもよおすから不思議なものだ。」というものとのことですが、ある情景により物事の見方が一変するということはよくあることです。
ここ数日の間は茶事三昧です。
お客様は、何年ぶりかの懐かしい人、お世話になっている人、常日頃交流の人と様々です。茶の湯での交会は飽きることを知らず、もう二十数年続いています。
私にとっての茶事は、まさに“雪の朝”の情景を見ることと同じで、日頃遭遇している悪しきらしきことは霧散し、新たな心持で事に臨める催事となっています。
物事の良し悪しは自分の心が判断し、幸不幸も同じ心が判断します。それを苦しみと思う人は苦しみが、楽しみと思える人は楽しみが訪れます。是非善悪は己のこころひとつという分けです。
茶事は一ケ所に人が集い、同じ譜面を見て皆で演奏をする状況に似ています。指揮者が亭主で、コンサートマスターが正客、第一バイオリンが末客のような役割で約4時間を過ごします。
人と同じ意識で交わるにはマナーが必要となります。これが茶の湯では作法といわれるものですが、私の茶事にはお茶会にもいったことのないまったくの素人が何人も参加しています。それでも茶事は楽しめるものです。
多分、私も含め客の皆さんは“雪の朝”を見ることになるのでしょう。
勝手で懐石料理を作る人も、亭主の補佐役の半東も、また水屋手伝いの方々も、日常が一変する情景を見ることを望んでいるのかもしれません。
日常は息絶えるまで続きます。その夥しい日常の中で“雪の朝”を見たい。今を生きる人間に必要なリセットシーンだと思います。
濃茶にお出しする新作志野茶碗のひとつに、銘「雪の朝(あした)」があります。
何もかも新たなりけり天地(あめつち)も 煌めき変わる雪の朝は
志野の白き肌を見て、四十数年前にこの雪の朝に目覚めたことを思い出し詠みました。
忙中の忙、好みの事とはいえ苦楽は続きます。