日本のすがた・かたち
眼に見えて
仏のかたちそこここに
神のすがたの
無きが不思議や
お寺に行けば本堂に必ず御本尊の仏さまがいます。
神社には祭神の神さまのすがたはありません。
仏教には仏のかたちがあり、神道に神のすがたはありません。
かたちを頼りにした信仰と、見えぬすがたを想像するふたつの信仰を我われ日本人は有しています。
ゆく年に除夜の鐘を打ち、来たる年に見えぬ神のすがたに願いをかける。
私は長いこと、日本列島に住む人々の年末年始の行動を不思議に思わず、子どものころからそのようにしてきました。
今年は思うところがあって、三日前の大晦日に京都知恩院の除夜の大鐘を聴き、その足で隣接の八坂神社に初詣をしました。
その時の同行の士のほとんどは同じような行動のようでした。
待たされたその動かぬ群衆の一人として寒空に立ちながら、なぜ先人はこのような風習を作ってきたのか考えました。
一時間以上動かない大衆の中で、我われの先祖はj縄文以前より、目に見えぬものの存在を畏れ、目に見えるものにより我が身のすがたを重ね見たのではないか、と思うに至りました。
そして、二つの眼でものごとを観る智慧を、営々と積み重ねてきた結果の産物ではないか、との考えにも至りました。非現実と現実との融合です。
この列島に暮らすものから、この神仏というすがた・かたちの二つの存在が最も心身を安寧に導くものとして支持され、それが行動となって今日に至っていることに違いはないようです。
それにしても、この寒空の中で佇み発揮される即席の信仰心。
万人に訪れる「お正月さま」。
無理なく先人を敬うようになるお正月さま到来は、列島の気候風土に添って生きている証が目に見える節会のように思います。
(写真 上「知恩院」 下「八坂神社」)