日本のすがた・かたち
毎年師走に入ると、必ず蘇って来る記憶があります。
東京の銀座にあったシャンソン喫茶「銀巴里」の思い出です。
二十歳前、東京にいた友達に誘われ、初めて銀巴里に行きました。以来1990年の12月に閉店するまでの約25年間、月に一度ほど工事現場靴のまま横浜から、また熱海や三島に移住後も行っていました。
今にして思えば、当時の独り暮らしの若者には、都会の空気と大人の世界に酔える刺激的な場所で、別世界の感がありました。まさに我が青春でした。
1951年(昭和26)に誕生した「銀巴里」は、ただ音楽を聞いて喫茶を楽しむだけではなく、ピアノがあり、専属バンドが演奏できるバンドセットを備え、歌手がシャンソンを目の前で唄う場でした。
オーディションによって選ばれたスターたちが出演し、丸山(三輪)明宏、戸川昌子、古賀力、金子由香里、大木康子、宇野ゆうこ達の顔や仕草が、今でも目に浮かんできます。
また三島由紀夫や吉行淳之介、寺山修司、岡本太郎などの存在もここで知ることになりました。
店を閉めることになり、なかにし礼が作詞作曲し唄った「さらば銀巴里」は、以来私の師走ソングとなりました。
「さらば銀巴里」
銀座七丁目 緑の看板 そこは銀巴里 銀座の中の巴里
廻るようにして 階段下りると 聞こえて来るのは あゝシャンソン
心ゆする ジャヴァのリズム 涙声の あのアコルデオン
恋を棄てた男や 恋に泣いた女が
夜毎に集まり 愛しつづけたもの
サ・セ・ラ・シャンソン それはシャンソン
古ぼけた 巴里の小唄
サ・セ・ラ・シャンソン それはシャンソン
永遠の恋唄…
銀座七丁目 看板も消えた ここに銀巴里 たしかにあったはず
ビルの前に立ち 瞼を閉じれば 聞こえて来るのは あゝシャンソン
さらば銀巴里 わが青春 忘れないさ 君のことは
銀巴里がなくなり 青春が消えても
私がこよなく 愛し続けるもの
サ・セ・ラ・シャンソン それはシャンソン
真実の 歌の心…
私は五十も過ぎたころ、「サ・セ・ラ(これぞ)・シャンソン」を「これぞ・セッケイ」と置きかえるようになっていました。
建築の設計に身を投じ、「これぞ、これだ、ぞ!」を目指してきた結果のようでした。
禅語では「これだ、ぞ!」を「者个聻(しゃこに)」といいます。
禅は「これだ、ぞ!」、シャンソンは「これぞ!」。
設計の神髄は「?」・・・未だに夢中の中。
私は想像し「もの」と「こと」を創ってきました。
それは、創らずにはいられない、生への衝動がなせる業だったようにも思えます。
シャンソンはフランス小唄、日本の都々逸のようなもの。
私の都々逸好きは、野暮と粋とのはざまの成果品。
(サ・セ・ラ・シャンソン そ・れ・は・セッケイ 人生の恋人 ・・・)
今日も紅葉を愛でながら、追憶の歌を口ずさんでいます。