日本のすがた・かたち

2011年6月13日
もうひとりの・・・

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ひとりの人間にはもう一人の自分がいるようです。
日常の私と、本質(本来)の私です。
先哲は、ことあるごとに泣いたり笑ったりする日常的な「自我」と、それに呼びかける本来の「自己」の取り合わせは、人生そのもので、ときには横に並び、ときには前後し、さらに影と形とが重なりあって、まるで一人の人格のようになって毎日を生きるのが、ほんとうの生き方だと教えています。
そして先人は、喜怒哀楽のなかで生きる日常の「自我」と、その我に呼びかける本来の「自己」があることを知ってその智慧を伝えてきました。
つまり、私たちのなかには本来の自分がいるということです。
現代人は「日常的な自我」だけが大きくなり、一人ぼっちという孤独感のなかで生きているといわれています。本質的な自己が不在で、日常の自分に呼びかけ、生き方や行動を側面から考えることができずにいるため、ひとりぼっちなのです。
この孤独から脱するためには、自分のなかにいるもう一人の本来の自分と重なって生きるほかはないようです。
本来の自分は、崇高であり、理想であり、高い人格を求めているものです。
生まれながら万人に具わっている能力です。
その能力を高めるために、ひとは学び、ひとは励み、ひとは行動します。
私たちには、自分の心境や行動を客観的に見る能力があります。
自分は今こういう気もちになっている、自分は今こういう望みをもっている、自分はこういうことを考えた、自分はこういう行動をしたなどというものですが、それで、自分は何をしているのか、ということを考えているものです。
しかし、加工された大量の情報を与えられ、便利、安全、安価の美名のもとにコントロールされて生きるしかない現代社会では、肥大した自己の姿に納得するより方法がなくなってきています。それは、もうひとりの自分とじっくり対話することができなくなっているということです。
大災害に遭遇して、なおこれから甚大災害の本番を迎えることになるこの時、先人の智慧をないがしろにしてきたことが悔やまれます。
我が国では、地球の日本列島上に存在する自然の気候風土のなかで暮らしてゆく智慧を選択すべきだったようです。
まさか日本人が、この地球という星を汚染する先兵となるとは思いもよりませんでした。
本来の自己とは、自然のなかで生き死を繰り返している生命のことかもしれません。
大地震は、私にもうひとりの自分がいなくなっていることを気づかせてくれました。
                                                                                                                                                                                                                    


2011年6月13日