日本のすがた・かたち

2010年5月27日
雨滴聲

HP-10524.jpg雨の声聴けば静かにこだまする
幼きころの母の声とも

                                                            
「雨滴聲(うてきせい)」とは雨垂れの声を聴け、との禅語(碧巌録)で、公案のひとつにあります。
公案とは禅の修行にいう問題集のようなものですが、修行僧が階段を一段一段上るように悟りに至るための設問語となっているものです。
雨が多くなるこの時期に静かに雨音を聴いていると、私はこの言葉を思い出します。30歳の頃に出合った太田洞水(おおたどうすい)老師が好んで揮毫されていた禅語でした。
洞水老師は曹洞宗の禅僧で、当時私の心の師でした。折々に雨垂れの音を聴くと老師の顔が浮かび、「何時も自分自身の声を灯火として行きなさい」、という声が聴こえてきます。
人間は60も過ぎれば、今までやってきたことや生きてきたことの在り様がおぼろげに分かってくるように思います。何をしてきても、その費やしてきた時間の中には、必ず次世代に伝えておきたいと思うことがあるように思います。
先人は営々としてそれを若者に伝え、良きことも悪しきこともそれなりに教え、伝えてきたのでしょう。私もそれに倣い、その良否や是非善悪の選択は若者たちに任せて、これぞ、と思うところを相手の様子を見ながら、「えい!」とばかりに伝えてみるようになりました。
「雨が降るならば雨になりなさい」
老師はそういって、一如の世界を説き、天地一杯に生きている生きとし生けるものを讃えていました。
今ここの相手と、あるいは仕事とひとつになって取り組んでゆくようにとの教えが、「雨滴聲」の一句の示すところのようです。
雨音は人間が出現する前から、この地上で妙なる調べ奏でていたに違いありません。それは草木に和し、葉影に潜む木霊とも……。
今、蓮の葉の上に円い水滴ができて、私の顔を丸く映しています。
そして雨音は、30数年前の雨の声にも、母の声にも聴こえています。
                                                                                                                                                  


2010年5月27日