日本のすがた・かたち
いにしえの遺物が語る有様は
今を生なむ糧になるやと
やはりそうだったのか。
最近、奈良の纏向(まきむく)遺跡から宮殿跡が発掘されたとの報道がありました。
どうやらこの一件で、邪馬台国畿内説はより有力になったといわれました。
これまで纏向遺跡は、卑弥呼がいた時代とは時代が違うとされていましたが、最新の時代測定の結果、古墳時代ではなく、弥生時代末期と解明されました。また広範囲に点在する遺跡も、別々のものではなく、実は一つの遺跡としてつながっており、かつてない巨大なものだと分かってきました。
出土している土器の産は、関東から北九州までにおよび、その勢力下は他の遺跡からみられない広範囲のもので、纏向の王権は当時日本最大の勢力だったと考えられています。
この遺跡の一角に卑弥呼の墓ともくされる箸墓(はしはか)古墳があります。
卑弥呼(日の巫女)は「古事記」にいう、7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト 生没年不詳)と同一人物である可能性が出てきたことになります。
そうだとすると、大昔から飛騨に口伝されてきた系図から、卑弥呼は天照大神(アマテラスオオミカミ・ヒルメムチ命)から12世代後の飛騨天孫族の女王となることになりますが、果たして・・・。
箸墓古墳は、岡山や四国といった地方の技術が導入されており、影響力の大きさが分かるばかりか、当時としては異常ともいえる巨大な墓になっています。
私が、やはり・・・と思ったのは、この発掘で、纏向遺跡は邪馬台国や卑弥呼とは関係のない、当時の絶大な権力者の墓であった、と思ったことです。
飛騨の口碑を仔細に検証してみると、この地の三輪山を御神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)にその謎を解くカギがありそうです。
倭迹迹日百襲姫の箸墓古墳には、大田田根子(おおたたねこ)が埋葬されていると口碑は言っています。
大田田根子は出雲族の三輪氏(藤原氏)の祖、別名を手力男命(たぢからおのみこと)といいます。その内にこの人物が日本の歴史の表舞台に躍り出てくることでしょう。
そして、邪馬台国は機内にはなく、当時九州にあった一国に過ぎないことも明らかになってくるでしょう。
先年、北九州の吉野ヶ里遺跡を見てきましたが、今回の木造宮殿跡の発掘は、私の好奇心をいやが上にも募らせました。5万年の昔から続いてきた日本民族の精神性が、縄文へ、そして弥生時代の末期のヤマト国に続いていたかと思うと胸が躍ります。それこそ、日本人が古から伝えてきた心のありようを示す証しというものです。
これから続々とその裏付けが発掘されてくると思います。
この世の説は凡てが仮説。邪馬台国はヤマト国をヤマタイ国と読み違えていたことが分かってきました。書かれた歴史には真実が存在し難いのかも知れません。
言葉では伝えられないもの。
先人はその意思や意図を、記述や記録ではなく、「かた」や「かたち」として伝えています。発掘が物語る歴史は、ゆるぎない物証になっています。
何億年も続く時の流れを一本の線に例えれば、現在の46億2009年の線上の点に、私はいることになります。この点を繋げてゆくのは次代の若者たちになります。
このまま無事に生きても、まあ、あと15年くらいが関の山。
遺跡の発掘ではありませんが、若い衆と刺激的な交流をしながら、日本人の美ましところを発掘し、共有できたらと思う昨今です。
(纏向遺跡 写真・産経新聞社)