日本のすがた・かたち
黒々と峰の横たう雲間から
明けゆく空に星やゆくらん
人間が亡くなると霊魂は肉体を離れ、高いところに昇ると信じられてきました。
奈良時代の万葉集には死者を悼む「挽歌」が多く詠まれています。
そこには、人は死ぬと魂が軀から離れ、山や高い樹々に昇るとされてきた日本人的な死生観があらわれています。
その高さも、他国の宗教にいうような天に昇る、というような高さではなく、身近にある高い山、高い
岩や木というものでした。
これは縄文時代よりもっと遡る、古代から日本にあった考え方だったと思います。
私も、幼いころから山に登りそこで呼んでみると、先祖や祖父たちが降りてきてくれて、一緒にそこに集い、守り励ましてくれるものだと信じていました。山に登ることは、亡くなった先祖や近親者に会える場に行くことだと信じていたわけです。
後年、その感は薄れるはずと思っていましたが、むしろその思いが強くなり、今では、山に登るのはその縁者に会いに行くような気持になっています。
山に入ると、大きな木々や岩陰には、見えない誰かがこちらを見ているように思うことがあります。滝に打たれてみると、その周りからひとりではない誰かたちが、その様を見ていたと思うことがあります。
そのけはい(気配)は、私に山川草木悉皆成仏を実感させるものとなっています。
けはいとなっているはずの精霊たちが棲み易い気候風土に育った日本人は、潤いのある精神性を具備しているのも不思議ではありません。
いずれは皆、けはいとなり、もののけになるが人の定めのようです。
今度先人のけはいに会えば、世界的な不況も、眼の前の不幸と思えることも、「実は何のことはないんだよ」と、いうに違いありません。
老少不定。
けはいになるための訓練のような気もしますが、私はまた小高い山に登ります。