日本のすがた・かたち
楽しみは
夕焼けにみるひとつ星
冬の一会を想うその時
茶道は形(かた)といわれるもので成り立っています。
先日お祝いの茶会に招かれ、改めてその感を強くしました。
茶会の一連の構成は主題や季節によって変わるものですが、その流れやもてなす側と客との挨拶や問答などは、行儀作法という形をもって行われます。中でも、茶を点てる点前という作法が、その一会の中核を成していることは論を待ちません。茶道とは隅から隅まで作法という「形の結晶」によって形成されている、日本文化の大きな塊といっていいと思います。
形に托されているものは美しい生活への憧れだ、と私はみています。
先人はこの形をなぜ作り、どのようにして伝えてきたのか。それを尋ねてゆく作業そのものが茶道となっているような気がします。また、茶道という形態は、室町時代に勃興した茶の湯の行履を訪ね、時代と共に変貌してゆく運動体といってもよく、最も日本の、日本人のすがたを現わす運動体のひとつと考えられます。
その憧れを生むはずの茶道も、人と人との交流の上にしか成り立たないことから、ともすれば集団における辛い人間関係の中に身を置くことになります。その人間関係は人が人として生きてゆくためには避けられないもので、楽しいことよりも、むしろ禅の公案を解くような厳しい情況の中にいることになります。
人間は好むと好まざるとに関わらず、集団のなかで暮らすこと余儀なくされています。私は、先人が形を伝えてきた大きな目的のひとつに、違う人間同士を結びつける「接着作用」があって、形は夫々が同じように習得する作法であり、違う人間同士が行動する際に共有する、暗黙の了解システムだと思っています。形は無言で人と人とを結びつけ、あたかも宗教を奉じる同志をつくり出すような作用を起こしています。
そして、形は約束の言葉を生んでいます。
正月を迎えることになる頃、「床の間の荘(かざ)りは蓬莱荘りが約束になっています」と、いう約束の言葉がでてきます。茶道にいう常用語です。ここにいう約束とは、頼りとか手がかかりというようなもので、お茶では、それを掟とか規定とかいいません。断定しないところで人との信頼を目指そうとする、「そうすることが約束です」の言葉。すでに、流派の家元筋から出されている、厳格で揺るがすことのできない作法やきまりを、あたかもきまりのない融通無碍の世界にいるようなことにする。
断じない。
いい切らないで互いの救いを残しておく。
ここに日本人の智恵が滲み出ているように思います。人と人とが相和す、和みの智恵に他なりません。
人間不信から生まれた契約や規則の集積の形。それはまた常ならぬ人の世のならいから生まれたものでもあります。茶道の形にひそむ約束の言葉は、はるか縄文時代から使われきた日本人の言葉かも知れません。
そして、その茶道をものみこんでしまう「茶の湯」が、その向う側にあります。
茶道と茶の湯の違いには、日本人の重層的な精神構造が見え隠れしています。
私はいつも、お茶の楽しみや面白さと道連れで茶会に臨んでいます。