日本のすがた・かたち
歌を詠み茶を服しては句を作る
たおやめ振りのさびのすがたや
西行の一歌、利休の一服、芭蕉の一句。
この三者から連想させられるのは、「侘び 寂び 幽玄」といわれる日本人の特質です。
先賢はこれを「たおやめの美」といっています。
日本人は神代のころから全ての物には霊が宿ると考え、それを「物の化(怪)」としてきました。
それは空にも日月星、山や岩や木、海や波そして風や音…。森羅万象に大いなるものが宿っているというものです。
縄文のころから育まれてきた日本的な精神性に、飛鳥のころ仏教が入り、日本人に行き渡ってきてから、この大いなる存在に近づこうとする人たちが現れたといいいます。
人間も物の一種で、その中に霊が宿っているので、その霊的生き方をすすんでしようとした人たちです。
目指したのは脱世間、出家という社会的な立場です。
彼らの中には世間的な出世や名誉から離れ、特に西行や芭蕉などは死せる者の視点で、世に在る物事の本当のすがた・かたちをみようとしたように思われます。侘びや寂びは死者の視点で世の実相をみるすがたでした。
その物事の見かたは、生き死にの界なく疑似死の観点からのものだったため、人々の心を捉えました。彼らはそれを詩歌などに託したのです。
またこの精神性は、兼好法師の『徒然草』、世阿弥の作の幽玄能などにも共通するもので、ここの底に流れているのは同じ死者の視点、つまり世を離れる出世間でした。
今日では少なくなったと思われますが、当時は多くの日本人がこのような生き方をしている人たちを心のどこかで憧れ、容認していたようです。この世捨て人しか見えない人の世の本当のところを、明日のために欲しがったと思われます。
今、私たちは雲をつかむような実態のない経済の中に生きています。今こそ侘びや寂びの視点から物事の本当のすがたを見せてくれる世捨て人が必要なのかも知れません。
私は、たおやめの美のなかに、日本人の優れた特性があるとみています。