日本のすがた・かたち
花の世の花のようなる人ばかり
すがたをみせよ そを成せる君
「花」は世阿弥(ぜあみ)のいう花です。
世阿弥は、室町時代に能楽を大成させた不出世の文化人で、多くの芸術論を遺しています。その中に、「風姿花伝」という能楽論があります。
その「花」とは、人々に感動を呼び起こす魅力とか芸術的魅力のことをさしています。
「花」は野に咲く花とは違い、花の都、今が人生の花だ、というように。また時めくこと、栄えることなど
の意味もありますが、世阿弥は人間の魅力について論じています。
それは、古くから日本人が人間として憧れ、めざしてきたものの生き方に他ならないものです。
能はかたとかたちの最も凝縮された歌舞音曲の塊といわれます。
それはもう何処からも手をつけることができず、隅から隅まで完成し尽くされていて、誰もそれを乗り越えることができません。後世の人々はそこから脱し歌舞伎から果ては新国劇までの新分野に活動を移してきたようです。能楽は現代演劇の母といわれる所以です。
時代は移ろう時、旧態を消し去り過去のものとして葬ります。その中で、なぜ能楽は六百年もの間絶えることなく、また我が国の代表的な文化として輝きつづけているのか。
世阿弥の言が響きます。
『花になる。その可能性は誰の中にも潜んでいる…』
能楽は花をめざします。
そこには日本人の、花になる、という美しい生活への憧れが溢れているようです。また風土に育まれてきた情躁が、能楽という高度に儀礼化されたものに感応し、肌で感受できるものとなっているからかも知れません。日本がある限り能楽は絶えることはないと思います。
見所(けんじょ・観客)を感動させるには『花と、面白きと、めずらしきと、この三つは同じこころなり』。世阿弥はこう記しています。神代の時代から日本人が心してきたものです。
私は、茶事を組み立てる時これに倣い、この三つのものから一会を見るようにしています。勿論、祭事「和の心にて候」も同じところから物事を組み立てています。物事の往きつく先は皆同じことのような気がします。花を求める人には、他を感動させる秘かな目的があるようです。
わが国には、先人が花を求め遺した情緒や歌舞音曲が今も力強く息づいています。
日本に生まれ育った私は、日本人であることに謝念を覚えるようになりました。