日本のすがた・かたち
40年も前になりますが、国宝「色絵藤花文茶壺」(MOA美術館所蔵)を観たのがきっかけでした。
当時、色絵磁器に興味を持ち、友人の窯で有田物を作り精力的に古九谷や古伊万里を観て回ったいた頃でした。
そして「藤壷」の作者野々村仁清に興味を持ち色々調べることになりました。
野々村仁清(生没年不詳)は丹波国桑田郡野々村(現、京都府北桑田郡美山町)に生まれ、本名を清右衛門といい、瀬戸で修業を積み、京の御室に窯を開きました。「仁清」という号は、仁和寺の仁と清右衛門の清を合わせたものといいます。後に後水尾院を中心にした宮廷サロンとの仲介役をなした金森宗和とのかかわりの中で、「藤壺」を始め優美な陶器を多く生み出しました。
そして三度目となる今回の仁和寺行きです。
目的は観音堂修復落慶記念特別内拝でした。堂内の障壁画と仏像・全三十三体を実見できる最後の機会ではないか、と思い立ったが吉日で、直ぐに出かけました。
観音堂は本瓦葺の入母屋造で重要文化財です。堂内には内陣・外陣があり、内陣には極彩色で描かれた観音像などがあります。仁和寺の創建は888年で、応仁の乱で焼失し、1641年から1645年にかけて再建されましたが、6年に及んだ今回の修復まで実に374年間公開されませんでした。
堂内に安置された燦然と輝く本尊千手観音菩薩立像、二十八部衆立像など全三十三体、その両脇に不動明王、降三世明王、色鮮やかな立像中でもひと際大きく、躍動感あふれた風神・雷神像は圧巻でした。私は須弥壇周囲を囲む壁画を飽かず観ていました。
また久し振りに茶室「遼廓亭(りょうかくてい)」、「飛濤亭(ひとうてい)」を訪ねました。
私が最も好ましいとする茶室は、犬山の「如庵」ですが、「遼廓亭」はその写しともいえる形態で、共に「二畳半台目向切り下座床」の席で、鱗板(うろこいた)が特色です。国宝「如庵」は織田信長の実弟・有楽斎が建仁寺塔頭正伝永源院に造営し、現在は犬山市にあります。先年、「如庵」で講演をした折、詳細に拝見することができ、その特色は「遼廓亭」に継承されたことを実感しました。「遼廓亭」は天保年間(1830年~1844年)に仁和寺門前にあった絵師・尾形光琳邸から移したといわれるもので、これらも重要文化財です。五重の塔を拝しながら懐かしく思い、また次代に継承するには、と考えました。
文化財の修復や修理の改修計画は「何を変えるのか」、「何を遺すのか」のせめぎ合いに尽きます。それには構成材料を知り、劣化の状態を知り、この後何年を継承できるのかを計ることになります。他に自然環境や気象条件などもその判断材料に入ります。
名建築の改修に関わる者は、如何にしてこの文化財の継承を担うのか、を自らに問うことが必要となります。
私はその判断基準は「各々の美意識にかかる」。そう思っています。
当日朝、奇しくも京都駅で帰京される上皇ご夫妻をお見送りしました。
仁和寺、天皇家、有楽、仁清、光琳、観音堂、千手観音、岡田茂吉、藤壷…。
また戻ってから、「藤壷」を世に展観された茂吉翁の夢を見るようになりました。何か不思議なご縁を感じています。
写真:上 仁和寺仁王門より中門を望む
中 修復成った観音堂
下 観音堂内千手観音の御手に結ばれた綱